マナスル登頂報告 その4 BCから登頂まで(1)




6) BCから登頂まで

▲【丘から見たベースキャンプ】


▲【ルートを検討するシェルパ達】


▲【赤線が登頂ルート】

 BCからの高度順化の予定は30日を見込んでいましたが、天気待ちで予備日を使って40日間もBC〜C3に居ました。朝は好天で明けることが多かったのですが、ほぼ毎日昼前から曇り始めて降雪となり、大雪の日も多かったのです。そのためC4への高所順応はできませんでした。日程に余裕の無い外国隊は次々断念して撤退して行きました。野口健さんも断念して下って行きました。


【4月14日】 BC

 持参した雪温計で外気温を測ると、午前5時半の気温はマイナス10度です。昨夜の雪は大した事はありませんでした。朝は快晴。今日は1日自由行動日なので、付近をうろつきます。我々のテント場の横(南側)の尾根状の小高い丘に登ると、テントのグループ数から、既に7〜8隊が入っているようです。はっきり判るのは、タムセルクの国際公募隊、ロシア隊、スペイン隊、韓国隊くらいでした。小高い丘のに立てたテント付近では土が露出している所もあるので、雪融けももうすぐかなと思いました。
 通常はベースキャンプ(BC:4,850m)から上に、キャンプを3つ設けてアタックするのですが、我々は高齢者ロートルグループなので、4つのキャンプ、つまりキャンプ1(C1:5,750m)、キャンプ2(C2:6,350m)、キャンプ3(C3:6,750m)、キャンプ4(C4:7,400m)を設ける事になりました。通常は、今回のC2は飛ばすそうです。
 シェルパ達※はC1〜C2〜C3のルートを遠くの雪面を眺めながら検討しています。C1〜C2の途中に登っている人やC2にテントが見えると言います。いくら目を凝らしてみても見えません。彼らの目は、非常に視力が良いので驚きです。デジカメの10倍ズームを使って探ると何とかゴマの粒のような人影を確認できました。方向が判ると、長い間目を凝らすとようやく肉眼でも判別できるようになりました。
 明日は日本で言う大安の日らしく、彼等は明日のプジャ(安全祈願の儀式)に向けて、タルチョ(祈祷旗)を揚げる準備を始めます。どこからか石を運んで来て土台を作り、サマ村から上げて来た支柱になる木を立てます。食堂でも同様な木を支柱としてテントの中心に天井の補強をします。午後は昨日と同じパターンでガスがかかってきました。
 我々のテントはベースキャンプの入口付近に設営されていますので、続々入ってくる隊のサマ村のポーターが傍を通過して行きます。どうやら、今日も野口健隊もBC入りを果たしたようです。彼らのテントサイトに直径1m程の大きなパラボラアンテナが設置されたので、衛星による情報通信に使うのでしょうか。
 インターネットに衛星回線で接続してブログのアップや、気象情報などを取る予定をしていたブログさんは、パソコンのハードディスクが不調で、WindowsXPが全く立ち上がりません。これで、下界との情報や通信は衛星電話だけになりました。太陽光パネルによるバッテリーの充電もうまく行かないようです。

(※厳密にはハイポーター達の事です。シェルパは種族の名前ですが、我々のハイポーターは全てがシェルパ族ではありません。しかし、一般的にヒマラヤのガイドという意味でシェルパが使われる事も多いので、これからはこの意味でシェルパを使います。)

▲【サマ村 − BC − C1 − C2 −
 C3 − C4 − マナスル山頂 位置図】


▲【プジャの様子】


【4月15日】 BC

朝5時半の温度はマイナス5度で暖かい。2日目の今日も自由行動日です。
今日は、登山の安全と成功を祈って登山開始前にベースキャンプで「プジャ」と呼ばれるお定まりの儀式を行う日です。シェルパ達は早朝から祭壇とタルチョ(五色旗)の準備に忙しい。タルチョは運動会のように祭壇のポールを中心に4方向に張り巡らせます。この儀式を取り仕切るのはラマ僧です。昨夜BCに登って来られたというラマ僧は、先日サマで宿泊した主人でした。祭壇の横ではサマからの登りで集めて来た「はりもみ(針樅)」?のような枝が焚かれるので、香りのある煙が周囲に漂います。
7年半前(2001.10.13)に、同じマナスルJWAF連盟隊の2次隊で登頂を断念してC3から下山中に不調に陥り亡くなったのKH氏の遺影が隊長によって祭壇に置かれ、供物も捧げられます。更に、我々の使う登攀具や高所靴などを周囲に供えます。高僧の御経が読み上げられると、皆の安全と登山の成功を祈りながら、一心に唱える僧侶の読経に耳を傾けました。盛大にプジャが執り行われた性か、他の隊からも見学や写真撮影に訪れました。熱心に読経が続き、1時間以上の時間を費やして終了しました。
 プジャが終わると、シェルパ5名とハイポータ見習い1名の6名がC1の設営工作に出発します。彼らは8時半頃にBCを出発して、早くも12時半過ぎには作業を終えて戻ってきました。
 コックさんやシェルパはどこからか水を汲んで来ますので、どこか捜すと雪融けになるとBCの中に現れる、雪の下の水の流れを掘り当てて、水を汲んでいたのでした。このポイントはBC全ての隊で利用されていました。
 午後は隊員全員でC1〜C4用の食料を個別に袋に分けたりなどの準備をしました。行動食は個人配布されました。夕方になると雪というより、アラレが降り始めます。テントの中に居ると、パラパラした少量の音では無く、シャーという強いシャワーにかかっているような音に聞えます。



▲【向うのスペイン隊のドームテントが潰れた】
【4月16日】 BC

 昨夜から雪が降り続き、朝まで積雪は約20cmとなったので、予定していたC1(5750m)への順応活動は中止となりました。
 ふとスペイン隊の方を見ると人が集っています。最初気付かなかったのですが、スペイン隊のドームテントの姿が見えません。どうしたのだろうとシェルパたちが駆けつけると、テントが降った雪の重さで潰されたそうです。半球形でしっかりしたフレームも入っているのに不思議に思いました。どうやら、屋根の先端付近が雪を流しにくくしている構造の性だろうという事です。そのスペイン隊長のロロさんが、固定ロープの設置に必要なロープ長さ確認と設置の体制をベースキャンプの各国隊で協力する打ち合わせをしようと呼びかけに回って来て、会議を夕方5時からスペイン隊のドームテントで行う参加要請があり、我が隊の隊長とアシスタントとしてチェットさんが参加する事になりました。午後からは再び雪が激しく降ってきました。
 食堂テントはミルクティーなどを自由に飲める優雅な談話室に変わります。隊員とのダベリングで隊長から、アタックで使う酸素の考え方を拝聴させて頂きました。酸素ボンベの流量を減らして長く持たせるのが良いのか、流量を増やして早く登るのが良いのかという判断で、酸素を切らさないよう流量を少なめに調整するというやり方を採用する人が居るが、少なくすると登行速度が落ちて、酸素を吸う時間が延びるのでサミットまで使う酸素量は減りません。逆に流量を増やし過ぎても、登行速度は流量に比例して上がる訳では無いので早目のペースで登れる自分の最適な流量を見つけて、早く安全圏まで戻ってくる方が大切であるという考え方です。
 しかし自分の最適な流量は余程体験していないと判りませんので、毎分2リットルよりも多く、2.5〜3リットルで使っても良いという話でした。隊長自身は無酸素にこだわっていらっしゃるのですが、こんな考え方ができるのも、隊を率いる豊富な経験があってこそだと思いました。
 テントで休んでいる時、隊長のテントに韓国隊が表敬訪問して、少し話されているのが見えました。話によると、彼等は3月下旬からベースキャンプ入りして、韓国隊はマナスル、ダウラギリ、アンナプルナの8000m級の3山をプレモンスーンの時期に登るという計画を立て、このマナスルの1回目のアタックでは失敗したそうです。韓国隊は若いし勢いはすごいなと思います。
 夕方に開かれたBCの全体会議で、各隊が固定ロープに提供できる長さを相互に確認し、先行する隊に提供する事が決まりました。しかしこの席でロシア隊は、アルパインスタイルで望むというので協力体制には入らず独自に行動するそうです。


【4月17日】 BC

 断続的な降雪は続いて、朝の新雪は50cm程もあります。夜中に何回かシェルパが順番に見回って、テントの雪かきをしてくれました。テントの中から「ダンネバ」と声をかけるだけです。日本でなら自分でやることですが、有り難い事です。
 ネパールでの生活も1ヶ月近くになるので、簡単でよく使うネパール語の単語の、ナマステ(お早う・今日は・今晩わ・さようなら)、プギョ(お腹が一杯でもう要らないと断る)、タトパニ(お湯)、ダンネバ(ありがとう)などはスムースに出るようになっています。
 一昨夜より積雪が多かったのでスペイン隊のドームテントが気になりましたが、しっかり立っていました。北側のナイケピーク側の急峻な壁面ではしょっちゅう、新雪が雪崩てドドドーと爆音を轟かせています。余程ひどい雪崩で無い限りこちらまでの影響は少ないだろうとは思いますが、遠くの大雪崩によって爆風でテントが飛ばされる可能性はあるので、その度に緊張して来ましたが、余りに回数が多いので、かなり慣れっこになってきました。
 本日も沈殿です。天気の回復を待つしかありません。9時過ぎにヘリがBCに来ました。イタリア人が足を負傷し、救助されてヘリを呼んだそうです。マネージャのチェットさんはしたたかです。スペイン隊は同じボチボチ・トレックの仲間ですので、スペイン隊と協同してカトマンズから鶏肉や野菜をヘリコプターに積み込むようスペイン隊の衛星電話を使って指令を出していました。有り難いことに、サマ村でも手に入らない野菜が手に入るのです。でも、ついでに運ぶので量的には小さなダンボール箱2個程度なので量はしれています。
 この隊を実質的にコーディネートしているのは隊長から信頼の高いマネージャのチェットさんです。日本語がペラペラで私たち隊員とシェルパやポーターや他の隊との間に入って通訳・情報収集だけでなく、物の手配・シェルパの指導さらには、シェルパの実態を踏まえた行動計画の提案などもしてくれます。一応サーダーとされているカミ・シンゲはシェルパを仕切ったりする才覚が低く、実質的な我々のサーダーはチェットさんで、カミ・シンゲは影が薄い存在になっていました。
 日中は暖かくて気温は0度程度で、日差しが出ると一気に暖かくなります。今日のダベリングでは隊長からシェルパの報酬について伺いました。昔は高所登山靴や登攀用具等を購入して物で渡していましたが、最近はシェルパも装備は充足されているので、基本料金相当で装備費用として1人に1500US$を渡し、ランニングコストとして食事・宿泊費は隊持ちで、1人・1日につき6US$支給する事にしているそうです。その他に私自身もメラ・ピークで体験したように、サミットボーナスも付け加えるそうです。


【4月18日】 BC → ナイケ・コル → BC

 本日は朝からすっきりした快晴ですが、大ピナクルには相変わらず雪煙が上がっていて、高所での強風が衰えそうにありません。今日からは、日焼け止め乳液と日焼け止めリップクリームを顔はもとより、首筋、耳たぶまでしっかり塗りこみます。はげた所をいつでも塗り重ねできるようパンツのポケットに入れます。そして今日からストックを取り出して使い始めます。
 今日の到達点でデポするから、使わない重い物を持って行くよう隊長からの指示があり、私はアイゼンをデポしようと、ナップサックに入れます。古老さんはほぼ空身です。9時頃に皆でC1方面に高所順応に出発しました。
ルートはテント場の中心にある小高い尾根状に取り付いてから、ナイケピークの側壁側をトラバース気味に登ります。途中1箇所だけ斜度のきつい場所がありますが、隊長の指示で昨日ダワが固定ロープを張ってくれていました。この場所を「ダワロープ」と呼びます。ここを過ぎると直ぐ広い氷河の縁を通過するようになります。積雪の性かクレバスは全く見えませんが、先に登った人のトレースがあるので安心です。
 先頭を歩くギャルゼンはぶつぶつ言いながらゆっくり登ります。敬虔なチベット仏教信者なので「オン・マニ・ペニ・フム」と唱えているのでしょう。1時間もしない内に、ブログさんが不調になって嘔吐します。これで、スルヤピーク以来2度目になります。彼はBCに引き返しました。古老さんは相変わらず超スローペースで歩きます。私はギャルゼンの次に歩いて付いていきます。いつものように、ギャルゼンと2人だけが先に登って後続と次第に離れます。ギャルゼンは時々後ろを振り返って後続を待つという繰り返しになります。
 C1はナイケコルの先の通称「黒岩」と言われる、雪の着かない黒い岩壁の上になります。ナイケコルに近付くと三角の形をした小さく黒い「黒岩」が次第に大きくなってきます。そこに向かっている先発の10数人の人影がゴマ粒のように見え始めます。新雪後なので先頭は浅いラッセルになります。のんびり登ったのでナイケコルに着いたのが13時頃になってしまいました。ここで引き返す事になります。デポ品をルート脇に埋めて赤の旗竿を立てて目印にします。

▲【黒岩で滑落した4人の内の1人が右下に見える】



 先を行く何パーティかの混成部隊は「黒岩」脇の直登ルートを登り始めているのが見えます。我々が下り始めて時々振り返っていると、何やらゴマ粒の人影の列が乱れて、尾根の下に4人ほどの粒が見えました。多分ロシア隊なのでしょうが滑落したようです。
 雪崩では無さそうですが、トレースの一部の雪庇状の雪が崩れています。張り出した雪庇でもないのでどうして滑落したのか判りませんが、アイス状になった上の新雪が崩れたように思えます。斜度や雪の状態・滑落距離からして、問題ないように見えます。下りながら時々振り返ります。暫くすると全員が黒岩ルートから降りてきました。そしてその内に全員が、黒岩を巻く遠回りルートを進んでいるのが確認できました。
 15時過ぎにBCに帰って、チェットさんの情報では、他隊での負傷者はないとのことでホッとしました。


【4月19日】 BC

▲【先行してC2設営に出かけるシェルパ達】

 今日も朝から快晴です。ブログさんは今日も体調が良くないようで昨夜から一緒に食事も取れません。明らかに高山病の症状なので、サマまで降りて2日間休養するよう隊長からの指示が出ます。また、サマでの衛星電話で日本の全国連盟事務所に現在の隊の状況を報告するよう指示もでました。ダワに付き添ってもらって1300m下ります。朝食後、隊長は近くまで見送りに出ました。
 私も下唇の内側に痛みが出始めます。縦に3〜4本割れるように潰瘍ができる口内炎です。メラ・ピークの時やアコンカグアの時もアタック後に同様な症状が出ましたが、高度が下がると自然に治癒しました。今回はこれからという時期に出始めました。未だ出始めの症状だけで化膿していませんので、口内炎用の軟膏を塗るだけで、暫く様子を見ます。
 明日からの順応活動のC1泊・C2タッチに備えて、先導役のギャルゼンとハイポーター見習いのビーバース君を除くシェルパが今日から先行してルート工作とC2・C3へテント設営に出かけます。1日遅れで我々隊員が追いかける形になります。


▲【少し上から見たC1のテント場】


▲【キムさんとソーさん】


▲【野口健さんとカメラマン】

【4月20日】 BC → C1

 今日も朝から快晴。今日は珍しく大ピナクルに雪煙は上がっていません。絶好のアタック日和かもしれません。しかし今日、BCを出発していては多分遅すぎるだろうし、仮に順応できていたとして、4日前に出発していれば良い訳ですが、16日・17日の前夜から朝までの降雪の後に出発するのは雪崩の危険性が高くてとても出発できなかったでしょう。難しいものです。
 8時にブログさんを除いてギャルゼンを先頭にBCを出発します。口内炎以外に体調に異変は無く、疲れも感じず快調です。ギャルゼンの後にきっちり付いて行きます。13時前にナイケコルに着き、デポしたアイゼンを回収します。その後2日前に滑落を見た黒岩のそばを通ります。未だその時のトレースが残っていました。雪崩れた跡のような薄いデブリも見られました。
 我々も黒岩の後ろを巻いて大きく回り込むルートを進みます。直登と違って思ったより距離を感じます。それに、このルートでさえそこそこの斜度を感じますので、直登ルートはきついだろうし、そちらを通るなら固定ロープを張った方が良いのかなとも思います。トレースの最初の人は、膝下以下の30cm程度のラッセルだったでしょうが、トレースがあるので楽に登れます。14時にC1に到着しました。         
 多くのテントが設営されています。いくつかのテントはかなり雪に埋もれています。後続の到着を待っている時、今まで何回か会って、僅かに言葉をかわしただけだけですが、韓国隊のキムさん(Kim,Chang-HO、39歳)とソーさん(Seo,Seong-H、29歳)が、近くのテントからこちらに手を振ってくれました。うれしくて、こちらも手を振り返しました。暫くするとこちらに来てくれ、写真を撮りあいっこしたり少し話をしました。
 なかなか後続隊が到着しないので、C2へのルートを偵察しに少し登ってみました。C1に戻った頃、野口隊に出会いました。初対面でないような気さくな方で、「いやー、高山病で頭が痛くて、イタクテ・・・」とおっしゃいました。何故か彼のカメラマンに写真を撮られました。初めてのハイキャプでの夕食は手巻き寿司です。労山新入会員の私は、労山作法を色々教えて頂きながら行うので新人の位置である(と勝手にそう思って)テント入口に陣取って、水作りの雪集めや煮炊きしている間の鍋を倒さないよう取っ手で支えたりなどの雑用を積極的に行います。それまでの、テント生活と違って食事時は2張りのテントの片方に集まって行いますのが、姿勢が悪くて悪い姿勢を保ち続けなくてはならないので、登行より遥かに苦しい思いを強いられましたが、必死に我慢しました。それに、テント内に落ち着いているのに、呼吸が荒いのが収まりません。
 手巻き寿司は「すしの子」の酢が食欲を高めてくれました。水分補給に何度もお茶を飲みますが、雪からお茶を作るので結構手間と時間がかかります。食事が終わって自分達のテントに帰ると辛い姿勢から開放されてホッとします。未だ外気温もそんなに低くないので、テント内ではインナーのダウンジャケット上下を上に着るだけで十分です。食欲も体調も全く問題無く、明日のC2への登行が楽しみですが、急峻で雪崩の可能性の高いクレバス地帯を初めて通過するので緊張感が強くなって来ます。


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メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)


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