マナスル登頂報告 その8 BCから登頂まで(5)



▲【アタックに先発する他国パーティ】

【5月20日】 C4 → マナスル登頂 → C4

 昨夜は寝ている間に睡眠用酸素が無くなって苦しくて目覚めてボンベを取替えたりしました。午前1時に起きて出発食のカップカレーヌードルを作り、腹に流し込みます。テントの中で靴を履いて準備しますが、強風が吹き荒れていて真っ暗な中をヘッドランプで出発できる状況ではありません。まんじりともせず待つ中で靴の中が次第に冷えてきて、軽い凍傷の左足指3本が痛みます。夜が明けるまでペットボトルの湯たんぽで足指を暖めながら不安な気持ちで待ちます。夜が明けると次第に風が弱まって来ました。6時頃には何とか出発できるようになりました。外気温は−18℃です。
 三つ指さんはカミ・シンゲと先に6時過ぎに出発して行きました。私は靴を履いたり・酸素ボンベを取替えたりで、もたついて結局6時半過ぎにダワと出発しました。
 先行している外国人パーティが3組居ました。青氷のプラトーに登ると彼等は止まったり、写真を撮ったりしています。先を急ぐと、プラトーから登り始めている三つ指さんが小さく見えました。出発が約30分の差があるので、いくら三つ指さんが無酸素といえ大分差がついてまいました。プラトーからの登りを登り切ったら再びプラトー状態の所に出ます。三つ指さんが次第に近付いてきました。

▲【1段目のプラトーを登り切ったが天候悪化】

 しかし、直ぐにガスがかかり始め、遠くの方向が見えなくなってきました。次第に雪模様になり、風も強くなってきます。視界が効かない吹雪の中を登りますが、アイゼンが効きにくくて緊張感が増してきます。その内、三つ指さんに追いつき、前を登ります。
 すると、カミ・シンゲが振り返って、これから進んでも3〜4時間かかるし天気が悪いので引き返そうと言います。三つ指さんは英語が判らないのでこの事を伝えても判断する反応はありません。私の意志で、行ける所まで登ろうと主張して、登りを再開しました。
 30分ほど登って、もうこれ以上登るのは無理かと敗退が頭にチラツキ始めた頃、小休止していると急に風が収まり、ガスも雪も切れて山頂が見えてきました。この感激は忘れられません。
 最後の登りは斜度がきつくてもカミ・シンゲは自分の力を誇示するかのように斜面を直登します。右のほうを登った方が楽で安全なのになと思いながらも伝えられず、ハの字で必死に付いて行きます。冬富士を登った時の様な極限の緊張感に達しています。そこを切り抜けてやや傾斜が緩くなると、先に行っていたカミ・シンゲがピークで待っているのが見えます。

▲【天候が回復して山頂が見え始める】             ▲【山頂が近付いてきた】          
 山頂基部に着くと最後はロープをセットしてくれていました。こんな所よりさっきの急斜面の方をどうかしてほしかったなと思いながら、踏跡もつけてあった のでロープにカラビナもセットもせず登 り切りました。

▲【最奥がピーク】


▲【ダワ(右)と山頂で】


▲【C4のテントは2張り残っていた】

 最後は三つ指さんに譲り、13時17分にネパール旗を立てた山頂に登頂できました。期待していた眺望は、山々が雲海の上に頭だけの出しているだけの満足いくものではありませんでした。
 時間が遅いからとダワにせかされ、山頂は狭いので満足に写真も取れません。三つ指さんは、自分の登頂写真を撮り終えると、その場で行動食を食べ始めて、動こうとしません。私も登頂写真を撮りたいので場所を譲って欲しいので「交代をお願いします」と言っても反応はありません。もう少しはっきり「私も写真を撮りたいので、その場所から下がって場所を空けて下さい」と具体的に言わないと理解してもらえませんでした。そのように三つ指さんに色々話しかけても、状況に対応した反応はありませんでした。
 下りは私も三つ指さんもバテバテで足が前に進みません。ポケットに入れてあ った行動食は時々食べてはいるのですが、テルモスの湯も飲んでいる余裕は殆どありません。下りにシャリバテが出てきます。三つ指さんは何度かへたり込んでこっくりします。
 雪質は登りより少し柔らかくなっており、アイゼンもしっかりささり、緊張感は登りより少なくて楽に下れます。途中、酸素マスクはもう要らないかなと外すと、疲れが一気に出て、下るスピードがガクンと落ちるので、C4に着くまで着けました。誰にも会わず、17時前にようやくC4のテントに着いた時は、周囲のテントは全て撤収されていて私達の2張りだけが残っていました。風が少しありましたが、天気は持ってくれています。何とか明日まで持って欲しいと願いながらテントに入ります。
 テントに戻って、酸素マスクを外しますが問題ないので以降使用を止めました。 疲れ切ってるので兎に角早く横になりたいのですがマットを敷くと夕食の準備スペースがテントの中央に確保できません。私はテルモスの残湯と行動食を食べるだけで良いから早く寝たいと思います。
 夕食を作るという三つ指さんは1時間以上の長い時間をかけて緩慢な動作でお茶を独り飲むだけで終わり、何時までたっても食事を作り始める気配がありませんので確認すると、三つ指さんは夕食を作らずに寝るとの事でようやく横になれて長い1日が終わりました。


【5月21日】 C4 → BC

 一晩寝ると疲れはかなり楽になりました。空は晴れていますが、少し風があります。6時頃から起きだして、ジフィーズの朝食を簡単に済ませて8時半頃から撤収を始めます。今朝はC4から山頂も見えています。C4を出発できるようになったのは10時でした。今日は何としてもBCに到着する必要があります。
 下り始めは快調です。下りは三つ指さんは早くて、次第に遠ざかって行きます。雪質が登りより少し柔らかくなっており、アイゼンもしっかりささりますので、緊張感は登りより少なくて楽に下れます。青氷の壁もエイト環の懸垂でスムースに下れました。

▲【出発の朝は山頂が見える】

 この頃から体が重くなってきます。下 りでも早く下れません。途中登って来る複合パーティに出合います。急登の所でしたのでトレースを外れて道を譲ります。譲っている間も呼吸が苦しいので、下を向いてゼイゼイいっていますと、「おめでとう」と声がかかりました。驚いて顔を見ると、KK隊のIさんでした。Iさんは元気そうでしたが、うつむいていたのかTさんには気付きませんでした。
 C3に到着できたのは14時になっていました。三つ指さんは先に下っているようです。その頃からトランシーバーでの交信をダワを介さず直接BCの隊長と始めます。三つ指さんはC3で私が着くのを待っているように言われたそうですが何故か居ません。下の方に見えますので、そのように報告します。下りを急ぐのに足は棒のようで中々高度を下げられません。行動食や湯を飲む余裕はありませんので、ますます下りスピードが落ちます。隊長はこの調子だと今日中にBCに着くのは無理ではないかと心配し始めます。
 もし、今日中にBCに着けないとしても、C1まで頑張って降りるよう指示が出ます。余りにも疲労が激しいので、C2への下りで、腰を降ろして行動食とお湯をしっかり取ると、急に元気が出てきました。隊長に今日は遅くなっても何としてでもBCに帰還すると気力を示しました。その後、C2に着くと隊長の指示で三つ指さんとカミ・シンゲが待っていてくれました。直ぐ出発します。この頃から腹が減って喉が渇き始めます。食べ・飲み尽くしていますので補給できません。足取りもガクンと落ちます。
 C1へのクレバス帯もストックを突いて切り抜けます。雪崩地帯を通過後、背後で大きな轟音がしたので振り向くと雪崩が起きていました。通過が10分遅かったら巻き込まれていましたが、ゾッとする程心の感性が残っていません。疲れ切っているのでそうだったのか程度しか感じません。ようやくの思いでC1に着くと、その辺に残置されている道具・燃料を使ってカミ・シンゲがお茶を炊いて待っていてくれました。一息ついて暫く休憩してから出発します。この先は危険な所は殆どありません。気力で我慢するだけです。
 辺りが暗くなって来る頃から雪が降り始めます。次第に雪もきつくなります。BCからのサポートのギャルゼン、カミが迎えに来てくれて、おにぎりと暖かい味噌汁を食べた時は、生きた心地がして元気が戻りました。BCに近付くと今まで見たことの無い水銀灯のような明るい光が見えます。BCにそんなものがあったのだろうかと不思議な感じでした。BCの皆さんが灯りを点けていてくれたのでした。
 21時50分に皆さんが待っていてくれたBCの食堂にやっと到着できました。皆さんの顔を見てようやく終わったんだ、無事生還できたんだという実感が湧いてきました。無線による隊長の励ましや、支援があったので無事下山ができたのだと感謝の気持ちで一杯でした。


▲【未だ降り続く雪(BCの私のテント)】

【5月22日】BC

 BC最後の日も、昨晩から降り続いた小雪は止まずに朝からほぼ一日中雪です。今日は、午前中は休養ですが、午後はカトマンズに直行させる荷物をパッキングします。カトマンズ直行の荷物は、サマまでやって来た道をポーターを雇って、本隊とは別方向に引き返します。
 我々本隊は、マナスル山群を一周するルートを取りますので、サマ村から荷物と180度の逆方向に向かいます。来た時のように、預けた荷物が宿泊地で取り出すという事ができませんので、帰りのルートで自分で使う装備を厳選しなければなりません。
 ティータイムで今までの事を話し合いました。隊長によると、7年半前のJWAF登山隊の時は他にチェコ隊と2隊だけだったそうですが、今までアタックし易いチョー・オユーやシシャパンマなどチベット側の山が昨年のオリンピックの時期に続いて中国の入国制限が続いているので、マナスルに転進してきている隊もかなりある上に、マナスルはチョー・オユーと同じように今後は更に人気が増してくるに違いないそうです。
 チェットさん情報ではこのBCではパーミッションが6隊で、国籍が15ケ国、約100テントが集結して居るそうです。今季は韓国隊、ロシア隊、ポルトガル隊、ボチボチトレックの日本2隊とスペイン隊、KK隊、ハンガリー隊、台湾隊、スイス隊、フランス隊、それにタムセルクの国際公募隊の野口健隊、チェコ隊、イラン隊、スペイン隊、プレステージ隊の国際公募隊のイタリア隊、アメリカ隊が入山したそうです。
 KK隊のアタック状況が心配ですが、アタックを断念してC4から引き返しているとの情報が入りました。やはり21日まで天候は持たなかったんだなと私の幸運を実感しました。


【5月23日】BC → サマ(ロッジ泊)


▲【朝5時の向かいの埋まりそうなテント】            ▲【雪融けの氷河湖】            
 朝5:00の外気温は0℃で、最後のBCにも拘らず、未だにこれでもかと雪が昨夜から降り続きます。朝8時過ぎに、40日も居を構えたBCを降雪中に離れます。
 最初の尾根を下り始めると中途半端な積雪なので、スリップしそうな厭な所が続きました。その中でサマ村からの我々の荷物を降 ろしてくれるポーターが次々と上がってくるのに出会います。その中には、もう見知った人も居ます。挨拶をしながら下ります。

▲【サマ村の宿泊ロッジ】

 下るに連れて積雪が少なくなり、氷河湖付近は殆ど雪は見られません。ようやく春が来たのだなと思えます。急斜面を下ると、ようやく雪が無くなり、懐かしい地面を歩きます。高山植物も所々で見られてホッとします。    サマ村では、入山前のロッジは満杯で、違うロッジに泊まります。久し振りに落ち着いてベッドで寝られます。しかし風呂はありません。湯で体を拭くのが精一杯です。濡れたものを干したりで結構忙しい中、今朝下る途中出あったポーターが次々到着します。ここでは、青氷のロープ手前で滑落死したハンガリー隊の残りの2人が何事もなかったように同宿していました。
 これまで、カトマンズを発ってからずっと禁酒していましたが、もう今日から自分で解禁にしました。ロッジでウィスキーを買って三つ指さん・ブログさんと一緒に飲みます。こりゃたまりません。
 夕食ではパダムが登頂記念ケーキを作ってくれ、シェルパを含めた全員で記念写真を撮りました。この時、エージェントの「ボチボチ・トレック」の社長のティカさんがグルン族のシェルパ代表としてネパール人のみのエベレスト登頂に参加して、19日成功したという話題になりました。ティカさんは7年前のJWAF登山隊の時はコック兼ハイポーターで活躍した人です。


▲【KK隊と歓談】

【5月24日】サマ(ロッジ泊)

 今日は帰りのポーター手配などの準備の日です。大ピナクル方面は、雲に隠れています。14時前に、サマ村の近くに宿泊しているKK隊の全員が訪れてくれ、一緒にパダムが作ってくれたトゥクパを食べたり、お茶を飲んだりで歓談しました。
 Tさん本人に聞く所によるとC3に下る時、滑落したそうで、何かに引っかかって偶然止まったそうです。その時は幻想を見ていたようで滑落の恐怖は覚えていないということでした。遭難一歩手前だったようです。








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メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)


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