マナスル登頂報告 その10 カトマンズへのキャラバン(2)



▲【アンナプルナ街道のルート図】

【5月28日】ティリチェ → ダラパニ → タル → チャムジェ → ジャガット(ロッジ泊)

 今日は、最初にアンナプルナ街道の分岐点の「ダラパニ(1960m)」に向かって7時半に出発します。ドゥードゥ・コーラ沿いにぐんぐん下って、ダラパニの町が見え始めた頃立派な岩壁が左岸に聳え立っていました。ダラパニではお茶休憩をした後、マナン方面と逆のベッシシャハール方面へマルシャンディ川沿いに下ります。
 アンナプルナ街道に入って目に付くのが家々がカラフルな事です。さすが人気の街道だけあって人目を引くカラフルさだなと驚きました。暫くすると何かのチェック要員のようなゼッケンと腕章を着けたヨーロッパ人が準備をしています。その内、マウンテンバイクに乗った外国人が次々通過していきます。
 ハンドルの前にゼッケンのようなプレートを付けているので何かの大会のようです。その内、レースの上位を諦めた人と時々会うので、聞くとベッシシャハールから出発して6日間で5416mのトロンパスを超えてカニヤガートまでの227kmの「ヤク・アタック」というマウンテンバイクレースだそうです。

▲【ダラパニが見え始める】

 暫く下って右岸から左岸に渡って行くと、タルの町に12時に着きます。ここで昼食を取ります。さらに下ってから再び右岸に渡ります。直ぐに夏道の高巻き道が現れますが、河原を進みます。飛び石伝いに川の中を進む所が出てきました。16時にチャムジェに着きます。ここで宿泊しても良い時間ですが、次のジャガットに温泉があると地図に出ているので、何としても入りたいと皆の総意で進む事になりました。チャムジェを出ると対岸に高度差の大きな立派な滝が現れます。
  結局ジャガットには17時半前に着き名前だけ立派なエベレストホテルに泊まりましたが、マルシャンディ川の対岸にある温泉はジャガットから30分程行った所で、おまけに道路工事で現在使用できないという事で、温泉に入浴する事は、今回も、はかない夢に終わりました。





▲【飛び石伝いに】                  ▲【ヤク・アタックの選手と出会う】    

【5月29日】ジャガット→シャンゲ[ジープ] →ブルブル→ベッシシャハール[バス]→ カトマンズ

▲【トラバース気味に下降する】

 いよいよ、今日はカトマンズに帰れる日です。ジャガットを7時半に出発します。この辺りまでバス道を造成しょうとしているようで、掘削された広い道が途切れ途切れに現れます。しかし、工事中の所は通れませんので、踏み外すとまっ逆さまに転落するような踏み跡を何度も通過しなければなりません。「ヤク・アタック」のマウンテンバイクの選手たちは、よくこんな所を通れたなと感心します。
 8時半過ぎに、1台のジープが待機している小さな集落シャンゲに着きます。やっと、車に乗れるのだとホッとしますが、前の座席は地元の病人の女性が優先的に乗り込みます。次に隊長・古老さん優先で、我々とシェルパは後部の相乗りの詰め込み座席に乗る事ができました。しかし、ガタガタ道を30分程乗ると、工事中で先に進めず、全員が工事箇所を歩いて越えます。
 その先にある小屋の前で、次に来るジープを待ちます。この周辺の人達も待っています。40分ほど待つと、2台のジープが客と荷物を満載して到着しました。ジープに乗ってから2時間半でチェックポストのあるブルブルを経て、ガタガタ道を辛抱して13時にベッシシャハールに到着しました。手筈良くチャーターバスが待っていてくれました。それまでの身動きの取れない最後部席の苦しさからやっと開放されます。

▲【やっとジープに乗れる】                  ▲【荷物満載のジープが到着】    
 ベッシシャハールでダルバートの昼食を取ってから、マイクロバスでカトマンズに向かいます。最初の来た時のアルガートまでの道程はひどく無い道をひたすら乗り続けます。途中道路のアスファルト工事で2時間ほど通行止めをくらったりしながらも、真っ暗になった20時半にトラチャンハウスに到着しました。


【5月30日〜 】カトマンズ

 トラチャンハウス到着以降、6月1日にはカトマンズ全体のゼネストがあり、外国人旅行者用以外の交通機関はストップし、店舗は閉鎖されましたので、その時はテント干し・衣類の洗濯乾燥などや、共同装備の山行用具の整理・残りの残数のチェックなどを行いました。
その他、洗濯屋にシュラフやダウンジャケットなどのダウン類を出したり、タクシーが使える時は買い物などにタメル・ニューロードなどに出かけました。隊員全員で何度か会食もしました。
帰りは、私と古老さんは予定通り、6月4日にカトマンズを出発して6月5日に帰国します。




8)あとがき(感想)
 
 子供の頃から、雪山の写真、特にヒマラヤの写真が好きで写真集などを大切に持っていました。しかし、小学生の頃に病気で1学年落とし、中学時代まで一切運動ができませんでした。大学時代に、念願の山岳同好会に入り山行ができるようになりました。
しかし、大勢の人と同じように就職・結婚で山を離れ、子育てが一段落して安定した50歳頃からメタボ解消も兼ねて山を再開しました。その間、ヒマラヤへの憧れだけは持ち続けていました。いつか8,000m峰に登りたいと思い、周囲にその気持ちだけは広言してきました。その内、自己暗示にかかって、8,000m峰が夢から目標に変わってきました。目標になると、トレーニングにも熱が入ります。
 最初は六甲山から始めて、職場の仲間と山行を繰り返しましたが、雪山・冬山に進んで行きますと、職場の仲間は雪山・冬山では離れて行きました。仕方なくトレーニングも含めて単独での山行が多くなりました。
8,000m峰へのステップを色々研究して、「メラ・ピーク(6,461m)」→「アコンカグア(6,959m)」→「チョー・オユー(8,201m)」の段階を一歩ずつ踏もうと考えました。
 60歳の定年退職を機に、トレーニングも週2回程度以上行うよう心がけ、どこまで行けるか不安を感じながら、幸運にも結果的にメラ・ピークとアコンカグアは、クリアできました。
アコンカグアでたまたま今回の隊長の「雪豹」氏に出会い、アコンカグアが成功したら、8,000m峰に登りたいとお話し(広言の一種)した所、労山でも全国連名でチョー・オユーを計画しているから参加を検討してみなさいとお誘いを受けました。
アコンカグアから帰って、クライミングの経験が余り無い事もあって○玉さんなどに相談した所、そんなチャンスは中々無いので是非チャレンジするよう励まして頂き、全国連名に申し込んだのが今回の結果につながりました。

 今回のマナスルを振り返りますと、色んな体験・反省があります。

 1つはアタックに向かって疲れを残さないという点です。今までのトレーニングで体力はそこそこ自信があり、ヒマラヤでは常識のビスターリ・ビスターリと言っても、チンタラ歩くのは嫌いなので、ついつい早く歩こうとする癖が出てしまいます。キャラバンの時は標高も低いので10kg以上のザックを担いで早く歩いても何とも無く、疲れも感じませんでした。しかし、同じ調子でサマからベースキャンプに登る時は堪えました。重い余分な水を持って今までの調子で登っていると高度の影響もあってか、かなり苦しくなりました。その影響か、あるいはサマで最後に寒い中で洗髪や体を拭いたのが影響したのか、BC生活の最初の頃は風を引いて微熱と咳きが出ました。それでも、BCでの生活に慣れると、風邪も直り、高所順応の行動日でも荷が軽いと、ついつい早く歩いてしまう癖がでました。
 高所の先輩は疲れを残さないように、ゆっくりした行動をするようおっしゃいます。そんなに疲れも感じないので、そんな指摘も実感できませんでした。しかし最後にその指摘を実感する試練が現れました。アタック日と下山日です。メラ・ピーク、アコンカグアでいつも感じていましたが、登頂後の下山がとんでもなく足が重いのです。今回も登りは緊張感もあって苦しく感じませんが、アタック日の下りはクタクタです。もっとひどいのはC4からBCへの下山では、下りでも足が前に進みません。栄養と水分が取れていないのも大きな原因ですが、知らない間に疲れが溜まっていたのだろうと思います。BCの隊長とは無線連絡のやりとりの中で、「今日中にBCに辿り着けないかも知れない」あるいは、「下山中に事故を起こすかも知れない」と心配をかけてしまいました。

 2つ目は、焦りと油断です。高所順応でC3からBCへ降雪中の下山で、早くBCに着きたいと先を急ぎました。高度が下がってC1からBCに近付く頃、気温も上がって来て汗かきの私は顔に汗をかくようになります。汗がサングラスにポタポタ滴るようになって、メガネが曇ります。その内汗が目に入ってきて目が痛くなり、時々サングラスを取ってごつごつした手袋を外さずそのまま目を拭きました。いくら先を急ぐといっても、手袋を外してタオルを出して拭けば良いのです。そんなに時間が必要な事でも無いのですが焦っていたのでしょう。それに、降雪中の紫外線に対して油断もありました。角膜を傷をつけてしまった事とともに雪目の原因も作ってしまったようです。サングラスを外していた時間は合計しても1時間以内です。視力がかなり悪くなり今後、どうしようかと一時動揺しました。同じような原因かどうかは判りませんが後日スペイン隊の女性が、雪目でヘリコプタでカトマンズに搬送されたそうです。隊長からのアドバイスもあって、数日で何とか回復できました。

 次に、幸運が無ければ登頂は不可能だと実感しました。幸運がいくつもありました。

 アコンカグアでたまたま今回の隊長の「雪豹」氏に出会ったのが最初の幸運です。しかも隊長が高所登山・海外登山の超エキスパートだったという事です。今回はあらゆる面で、隊長抜きでは登頂成功は考えられません。そういう意味で隊長には感謝し切れない程です。

 2つめは、登頂に必要な絶対条件は天候です。多くの隊が悪天候の中アタックを断念して撤退して行きました。我々は少なくとも10日の予備日を持っていました。それに、いざという時は隊員全員で相談して更に行動日を延長しても良いというくらいの余裕がありました。
しかし、日程より大切なのが予測です。アタック日をBCで設定して、その日の4日前にBCを出発しなければなりません。4日先の山頂付近の天候を予測するのは不可能に近いのです。確かに衛星電話を通じて山岳気象情報を手に入れる方法もあります。
今回も同じエージェント「ボチボチ・トレック」のスペイン隊はスイスの予報を得ていました。シェルパの使い方・資材などで協力する面もあって、気象情報を提供してもらう事ができました。しかし、長いBC生活の中で得た気象情報はそんなに信用できないなと実感しました。それより長年の経験者の隊長の感?方が信用できる気がしました。それでも、結局、C4からアタックできるかどうかは運次第という気がします。
晴れていても風が強ければテントから出られませんし、何日もC4で待機するには食料・燃料・酸素などに加えて高所衰弱の問題がありますので、天候回復を待つには限度があります。

 3つめは、状況判断の難しさです。私たち2次隊は、アタック当日午前2時出発を予定していましたが、その頃から強風が吹き荒れて出発できませんでした。それでも夜が明けると風も弱まりました。ここで出発するか、もっと風が弱まるのを待つかの判断です。我々は出発しました。出発した他の隊もありましたが、プラトーから登りにかかる頃には、いつの間にか居なくなりました。更に次にはガスの中に入り、降雪で吹雪状態になりました。シェルパも引き返そうと言い出しました。ここで引き返しては敗退です。私は多少無理しなければ登頂できないと思っていましたので、行ける所まで進むよう主張して、登り続けました。結局、その後天気は回復して登頂できましたが、これも幸運です。天候が更に悪化していれば遭難していたかも知れないのです。
 
 今まで、大勢の方に支えられて挑戦できた事と、非常に幸運が続いて登頂できました。今は感謝の気持ちで一杯です。夢が実現してしまったので次はどうするのかとよく聞かれます。厳しさでは別次元になりますが、マナスルと早く決別して、マナスルよりもっとすばらしい日本の雪山を、仲間と共に登りたいと、次の夢を持っています。



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メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)


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