▲シミコット飛行場
炎熱のネパールガンジから飛ぶこと40分でシミコットの飛行場に着陸した。飛行機から降りると、乾いたさわやかな空気にホッとする。ここは標高3000mにあるキャラバン出発地である。泊まる宿屋の主人に電話して迎えに来てもらった。商店街を通って10分あまりで宿に着いた。私が仲間に先行してここにやってきたのは輸送に使うラバを手配するためだ。サーダー(シェルパ頭)とともにここに1週間滞在して近隣の村から馬方を呼び寄せて交渉した。そしてラバとウマ25頭、馬方6名を雇用した。山の状態が事前にわからなかったのでロープなどの装備、食糧、燃料が多くなりラバの頭数が増えてしまった。
▲シミコット裏山の3900m
9月22日、隊員4名を飛行場に迎えに行く。日本出発から初めての隊員もいて握手する。この日はキッチンボーイも夜遅く到着した。かれはカトマンズからバスと徒歩で8日目に着いた。飛行機で運べないEPIガスを背負ってきたのである。これで全メンバー、スタッフがそろった。
9月23日、隊員4名はサーダーとともに裏山に登りに行った。3900mの稜線まで高度順応に行くのである。登り3時間のところで放牧小屋もあり国境の雪山も見える。私はすでに登っているので宿で見送った後クライミングシェルパのケシャプと話す。かれはマナスルの山麓にあるグルン族の村出身である。38歳でこれまで8000m峰ではチョオユー、シシャパンマ、マナスル、ダウラギリ、K2、
ブロードピークなどに登頂したという。サーダーのマンは50代で体力はすでに盛りをすぎていて「8000m峰の登山はやめた」と言っている。しかしコミュニケーションやマネージメントにすぐれているので今回も来てもらった。マンとはこれで3回目の登山なので気心は知れている。ケシャプはマンが連れてきたのである。
▲サイパル(7030m) サリコーラから
9月27日、サイパルを見る。同志社大学隊が初登頂して50年以上になるがすぐ近くには6700mの未踏峰がある。交通が良くなったのでこのあたりの山はもっと登られてよいと思う。
▲ブルーシープを持つコック
9月29日、ニャルラ手前の4100mに滞在した。昨日は4650mまで高度順応に行ったので今日は休養日である。雨が降っている。このあたりはユキヒョウが生息している。ユキヒョウは狩りをして生きている。その対象になるのがブルーシープである。野生のヒツジのような動物である。そのブルーシープの角が落ちていて一同頭に載せて写真を撮る。翌日にはブルーシープの群れを見た。馬方が追いかけていったが当然ながら逃げられた。以前にも別の場所で群れを見たがこれほど多くの群れを見るのは初めてだった。私たちは罠にかかったブルーシープを買って食べた。馬方が解体したが家畜のヒツジやヤギのほうが美味である。ヤギのレバーは絶品である。
▲ヤクの糞は乾燥させて燃料に
この地域はチベット語を話す牧畜民がヤク、ヒツジ、ヤギなどを放牧している。 かれらの燃料はヤクの糞である。糞の乾いたのを集めて燃やしている。灌木も燃料になるがたきぎになるものは少ない。私たちは貴重な灯油を節約するためヤクの糞も使用した。ご飯を炊くのに使うと匂いが移るのでもっぱら湯をわかすのに使った。川の水は冷たいのでヤクの糞はありがたかった。
▲馬方たち
ラバとウマを雇ったので馬方も同行した。かれらは村で農牧業や薬草採集などを生業としている。20代の若者から50代のベテランまでいておもしろい。若者は好青年のように思えたし、その内二人は「イケメン」で若い女性隊員がいたらにぎやかになっただろうと思う。それでもリーダー格の老タワは「テント場に着いたら若いもんはばくちトランプばかりしとる。ラバをもっと良い草地に連れて行ったらいいのになあ…」と愚痴を言っていた。後日の大雪でラバ一頭は死亡し、二頭は逃亡して捜索していた。死んだラバの所有者はオッサンであったが落ち込んで慰めようもなかった。日本人的感覚ではトラック一台を失ったようなものだろう。ネパールでは馬方が死亡すれば私たちの加入した保険で補償されるが家畜は対象外であるし雇用主に補償義務はない。私たちが見舞金(ラバ購入費の3割相当額)を渡したら翌日から笑顔を取り戻して雰囲気が一変したのには驚いた。
▲知られざるカッコいい山(約6200m)
10月5日、5400mの峠を越える日だった。テント場を出ると尖峰が見えてきた。ここからは6000m峰がふたつ見えるがどれも手ごわそうである。西ネパールは「無名峰の聳える国」で探せばよい山はほかにもあるだろう。後日ロレチュリを初めて見たときのことも忘れ難い。テント場に着いた日は雲が多くて山麓の氷河が見えているだけだった。夜中にテントの外に出ると月光に照らされたロレチュリの全景が浮かび上がっていた。夜明けには雪のひだもくっきりと表れていた。ついにここまで来たかという思いである。隊員それぞれが感慨にひたりながら写真を撮っていた。
▲ベースキャンプ4300m
10月8日、ロレチュリのBC(ベースキャンプ)への道を探す日である。ベースキャンプは4800mに設ける計画だった。ロレチュリ対岸の踏み跡をたどっていくが向こう岸にわたる橋は見当たらない。しかしこのあたりで渡らなければこの山には登れない。ココノール、I佐、サーダー、ケシャプの4人で渡渉できるところを探しに行く。そして上流に行き渡渉可能な場所を見つけた。その岸にテントを張って対岸に渡るために飛び石を川に入れる作業を馬方やシェルパがした。氷河の融けた流水に入ったまま石を対岸までおいた。作業後は足を湯につけてたき火にあたる。そしてとっておきのウイスキー1本をかれらに提供して労をねぎらった。そして結局これがベースキャンプ開きとなった。渡渉しても4800mのBC予定地までの斜面はラバが通れないことがわかったのである。
▲C1(ハイキャンプ)4800m
4800mには幸い氷河の池があり水の心配なくC1とした。C1にテントを二張設置し、積石でキッチン小屋を建てた。そこに灯油コンロをあげてご飯を炊きスープを作った。EPIガスは節約しなければならない。荷上げと高度順応を兼ねてBCから何度も往復する。回数を重ねるごとに呼吸が楽になるのを実感する。C1までの斜面は家畜の糞も踏み跡もなく地元の人も入っていないことがうかがわれた。C1からのルート工作は当面、I佐、サーダー、ケシャプが行うことにしてほかの隊員は荷揚げした。最初は10kg程度として慣れたら増やす。
▲クレバスのスノーブリッジを渡る
ルート工作はケシャプがトップ、サーダーがセカンドでビレイ、I佐は状況をみてトップに立つことにしていた。5000m付近からクレバスが顕著になる。中をのぞくと底は見えず不気味である。8mmロープは一巻200mありそれを繰り出してスノーバーに結わえていく。高くなるにつれてチベット国境の山やまが見えてくる。荷上げはC1から上に進み、ロープ、スノーバーなどを工作隊の近くまで上げて残置する。
▲右上のクーロアール5400m付近に到達
10月13日、ルート工作は5400m付近に到達した。あと一日で頂上稜線に出て、一週間もあれば登頂できるであろうとの期待感が高まる。その日、ルート工作隊はC1に泊り、荷上げ隊はBCに下りた。
▲大雪のBC
その夜半に雪が降り始めた。朝になるとBCは10cmあまりの積雪だった。荷上げ隊は行動中止を決める。その後ルート工作隊もBCに下りてきた。夜になっても雪はやまずテントの雪下ろしに追われる。夜11時すぎにはキッチンテントがつぶれかかっていたので雪をおろし補修する。サーダーは、後ろの斜面で雪崩れているという。見に行くとテント場から30mほど上流にデブリがあったのでキッチンテントに避難した。積雪量は約1m。
▲フィックスロープの掘り起しを試みるが…
10月16日、C1のテントを掘り起し、翌日再建した。フィックスロープを探して10月20日にようやく頂上稜線直下に行くことが出来た。ロープは寸断されスノーバーは折れ曲がっていた。トップに立ったケシャプは「フィックスロープが切断されている。少し上にアイススクリューを残置したけど氷の斜面はスクリューがないと登れない」と言ってきた。そしてかれの足元から雪崩が発生したのが見えた。「登頂を断念する。すぐ下りるように」と指示した。
▲BC撤収してロレチュリをバックに
10月21日、BCを撤収して帰途に。ゴミを燃やして「ロレチュリさらば」である。もう少し若ければ涙が出ただろうか。寒い所にあきあきしていた馬方はうれしそうだ。
10月28日、カトマンズで日本大使館に報告に行く。応対に出た書記官から、大雪で日本人を含む45人が死亡したと聞いた。