ヒンドゥ・クシュの山旅

          〜パキスタン・アフガニスタンの国境地帯を歩く〜  (報告/ココノール)


「ヒンドゥ・クシュの山旅」の報告は画像が多いため前・後、2ページでの紹介です→前編へ





名峰コヨ・ゾム(6872m)

朝7時に新たな馬方が2名やってきた。4時に下の村を出て駆けてきたそうだ。やはりワヒの若者であった。かれらはロバとともに馬を連れてやってきた。テントを撤収して歩き始めると広大な草原になった。今度の馬方もザックを持ってくれるし、馬に乗れと言った。進むにつれて馬上から前方にコヨ・ゾムの姿が大きく見えてきた。ヒンドゥ・ラージ山脈の主峰である。

▲コヨ・ゾムを望む

このコヨ・ゾムの近くの谷は中央アジアとインドを結ぶ道があり古代より旅人が通った。この山に初めて挑んだのは1968年のRCCU隊(雁部貞夫隊長)である。二度にわたってアタックしたが頂上には立てなかった。そしてその直後にやってきたオーストリア隊がルートを引き継いで初登頂した。その翌年には東京岳人倶楽部隊(小笠原重篤隊長)が登頂した。頂上直下のオーバーハングで人工登攀、岩と蒼氷のミックス帯でアイゼン・ピッケルも効かない堅い氷、きびしい登攀ののち頂上に立った。全隊員が20歳台であった。わかいときにこんな山に挑戦できたことはすばらしいというほかない。

▲コヨ・ゾム東面 正面の稜線がルート 左の山はペチュス・ゾム(6514m)
「カラコルム・ヒンズークシュ山岳研究 2001年 ナカニシヤ出版」より

子供たち

コヨ・ゾムが大きく見える場所に学校があった。外国のNGOが昨年に建てたそうだ。それまでこの地域一帯には学校がなかった。学校ができても通学しない子供も少なくないということだ。ワヒは一般に子だくさんである。結婚したら5人くらいの子供を持つのがふつうのようだ。わたしが雇った車の運転手は子供をつくるために休暇をとって村に帰ってきたと言っていた。公教育が不充分な辺境のワヒは住民が学校を作っている。しかし同じワヒでもこのボロゴル地方は貧しい。フンザ方面のワヒの村に出稼ぎに行っている。家は泥で作っている。かまども同様で泥炭が燃料である。昔から変わっていない。コックが家の中を見て言った。
「わたしの村ではこのようなかまどは30年前になくなり、今はストーブを使っています」
チカールの村で農作業をする家族に出会った。娘さんは英語を話し明るく社交的だった。この村で外国人がキャンプしてお金を使ってもらうために、父親が町の学校に留学させたそうだ。しかし今ここにやってくる外国人はほとんどいなくなった。農牧業では子供たち全員の教育費が負担できないのである。それでもこのボロゴル地方から町の学校に行った若者が地元の国境警備隊に就職しつつあり明るい兆しもある。

▲イシュコマンの子供たち


▲イシュカルワズの家族 こん炉で夕食準備

ボロゴル峠は遠かった

この旅の山場はふたつあった。ひとつはカランバール湖であり、もうひとつはボロゴル峠である。ボロゴル峠はアフガニスタンとの国境にあり、歴史上有名である。そこを越えると名高い秘境ワハンである。そこに日帰りで往復するつもりだった。峠への拠点となるイシュカルワズに着いてから国境警備隊の詰所を訪ねた。ボロゴル峠訪問の許可を取り付けるためである。詰所の建物に行くと4人の隊員が外に出てきたのでナシールが交渉する。そして、その経過をわたしに説明する。

ナシール「峠行きは許可できないと言っています」
わたし「理由は何や?」
ナシール「ナンガパルバット事件の影響で許可できなくなったということです。」
わたし「それはここの警備隊の判断か、それとも政府が決めたのか?」
ナシール「政府が決めました。あなたは今年この地域に来た最初で最後の旅行者だそうです。」
わたし「どういうことや?」
ナシール「イシュコマンからカランバール経由で来たのでここまで入ることができたのです。通常は反対方向のチトラールから来ます。その許可が今は出ないのです。チトラール管区は外人旅行者にきびしくなっています。ですから今年予定していた旅行者はすべてキャンセルになったのです。」

どうやらわたしは正規の入り口ではなく裏口から入ってきたので、ここまで来られたようだ。政府の決定ならやむを得ない。交渉をあきらめた。警備隊の旅行者名簿に記入を求められたが、今年のページはやはり空白だった。警備隊員に、「またそのうち来るよ」と言って握手した。人生の残り時間を考えると来られへんやろなあと思いつつ詰所をあとにした。これでこの旅も終わったようなものだ。でも嘆かない。ここまで来られたことに感謝しよう。翌日は1日あいたのでチカール方面に散歩し、放牧小屋に招き入れられて老人に村の様子を教えてもらった。そして翌朝、麦刈りをしている畑を通って車道をめざした。ジープに乗るまで車道を2日歩かなければならない。樺の木も色づいてヒンドゥ・クシュは秋だった。

▲羊と羊飼いの女が通り過ぎて行った チカールで


▲昼休憩していると近所のおやじがパンとお茶を運んできた。
地元の人はこのような助け合いをするので移動時に弁当を持たない。
茶店はない。(ボロゴル峠に近いヤルクン川にて)

パキスタンの治安は?

2001年のアメリカにおける9・11テロ事件はパキスタンへの旅行者を大幅に減少させた。

▲ギルギットのホテル 宿泊客はほとんどいなかった
パキスタンの北部山岳地帯は魅力に富む地域であり、ネパールとは異なる良さがあり、そこにひきつけられる人は一定数いる。わたしは行きたいという気持ちを抑えられなかった。そこで現地事情の把握に努めた。イスラムの基本知識は世界的な東洋哲学者である井筒俊彦の「イスラーム文化」、「イスラーム生誕」、「コーランを読む」の3冊がとても有益だった。

難解なことをわかりやすく、しかも格調高く語っている。そして今日の事情では水谷章「苦悩するパキスタン」が秀逸だった。この本は読んで面白いものではないが情勢分析は参考になる。インドとパキスタンの関係もおさえておく必要がある。もちろんアフガニスタンや中国も関係する。これらの学習によりわかったことのひとつは、北部山岳地帯ではイスラムのイスマイル派が主流である。そしてイスマイル派は穏健であり過激な行動はしないことだった。事実、これまで北部でテロ事件は発生していない。イスマイル派はイスラム諸派のなかでは異端中の異端とされている。宗教的束縛があまりなく飲酒も認められている。地域開発や女子教育に力を入れている。女性はブルカなどせず顔を隠していない。宗教が生活にあまり影響を与えない日本と親和性がある。これらを総合した結果行っても大丈夫だと思った。これらの学習は現地の人と話すうえでも大いに役立った。

ところが出発前の6月になってナンガパルバット事件が起こった。冒頭でも書いたように、ベースキャンプが襲われて登山者ら11人が死亡するという衝撃的なものだった。北部での事件はパキスタンの観光業に壊滅的打撃を与えるとの見方がある。この事件の報道を受けてまず考えたのは、その場所である。ナンガパルバットのディアミール側はチラスの町に近い。北部ではこの狭い地域だけが正統派イスラムのスンニー派住民が住んでいるのである。スンニー派はタリバンを生んだ宗派である。それが事件と関係があるのだろうか思った。考えた結果、わたしはこのチラスを通り過ぎるだけなので問題ないと思った。そして現地代理店からは「事件は続発していないし入域する外国人もいる」との連絡があった。

現地で聞いた話では、この事件が発生してから地元住民が事件に関与した者を割り出して警察に突き出したということだ。拘束されたのは実行犯ではなく手引きしたことが疑われる容疑者である。その容疑者は外部からの移住者とのこと。住民は古くから経済的に外国登山隊や旅行者に依存するところが大きく、この事件に危機感を抱いたのである。またこの事件はある集団が特定の国の人を狙って起こさせたものであるとも言っていた。ちなみにその「特定の国の人」とは日本人ではない。しかし、わたしはそれらの情報の真偽を確かめる手段を持たない。

では、パキスタンは危険かという問いにはどう答えるのか? それに答えるのはむずかしい。 アメリカ合衆国では凶悪犯罪が多発していて日本人も犠牲になっている。でもアメリカに行く日本人は多い。行きたい人は自分で現地事情をみきわめて行動するしかない。それはパキスタンに限らないのであるが。


 ------- 徒歩ルート    (地図・「パミール3つの峠」より)


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メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)

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