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2013年8月28日から9月15日までパキスタンに一人旅をした。目的はヒンドゥ・クシュ山脈のカランバール湖や国境の峠を歩くことである。自然も人も文化もわたしたちにとってなじみが少ないのがパキスタンである。行く人は少ない。しかもトレッキングや登山はフンザやバルトロ氷河に集中しており、ヒンドゥ・クシュ方面に行く日本人は極めて少ない。結果は、国境の峠に立つ望みは実現しなかったが、近年は外国人が入ることが困難になっているこの地域を歩き回ることができた。 パキスタンの首都、イスラマバードから車で2日間走ってギルギットに着く。この町の役所で許可証を交付された。パキスタンは6000m以下の登山やトレッキングは許可はいらない。自由に歩ける。しかし国境に近い地域では政府に許可申請をする必要がある。許可証をもらってギルギットをジープで出発した。車に揺られているあいだにいくつかのオアシスを通り過ぎた。山岳砂漠のなかでオアシスの緑が目にしみる。パキスタン北部の山岳地帯は乾燥地で町や村は点々とあるオアシスに立地している。張りめぐらされた水路には氷河の融水が流れており、この水によって樹木や作物が育つ。高い山があって、そこに氷河があるおかげで人工のオアシスが作れて、そこで人も家畜も生きていくことができるのである。雨が多く森林が自然に育つ日本とは大違いである。 ▲ギザール川ほとりのオアシス この旅の同行者を紹介しよう。ガイドとコックが同行する。ふたりともワヒ族である。ワヒはペルシャ語に近い言語を話す民族であり山地で農牧業を営んでいる。今回はワヒの住む地域に行くのでスタッフがワヒであることは大変都合が良い。ガイドの名をナシールと言い39歳。登山隊に雇われて高峰登山することを生業としている。ナシールはこの6月にナンガパルバットに登っていた時に、BCがテロ攻撃にあい、外国人を含めて11人が殺されるという事件があった。幸いかれは6500mの上部キャンプにいたおかげで難を逃れた。そのあと田舎に帰っていた。今回、私と同行するためにイスラマバードに上京して空港で出迎えてくれたのである。母語はワヒであるがパキスタンの国語であるウルドゥー語、北部のプルシャスキー語、コワール語、そして英語を話す。残念ながら日本語はできない。これまでもっぱら欧州の隊についていたらしい。腹回りが大きく、とても高峰登山に適しているとは思えない。そのことを言うと本人は、「高所で食糧が不足したときにちょうど良い」とうそぶいている。かれは冗談好きで度々ジョークを飛ばしている。「ナシールは登山をやめてコメディアンになったほうが良い」と言ったら、まわりにいた人も笑ってうなずいたものだ。一緒にすごしてわかったが、かれは有能なガイドであった。 ▲ナシール ジープ終点の集落であるマトランダムに着いた。ここは標高3000mで最奥の常住村である。ここから上は夏のあいだ放牧するための小屋が存在するだけである。ここでロバ四頭を雇った。四頭のロバに馬方が6人ついてきた。6人も必要ないだろうと思ったがそうでないことが後でわかった。馬方は全員二十歳ほどの若者である。 ワヒの容貌はさまざまであるが、馬方の一人は白人で金髪であった。この地域はアレクサンダーの大遠征以来いくつものの民族がやってきて血が混じったのである。かれらは一見とりつきにくい雰囲気であるが、親切で気持ちの良い連中であった。そして途中からは国境警備隊の隊員が自動小銃をもって同行してきた。護衛だという。私一人のために多くの人が付き従うことになった。一人できたのにずいぶんにぎやかな旅になったものだ。 ▲馬方、国境警備隊とともに チリンジ氷河に近づくとカランバール川の対岸から氷がせり出して舌端がこちら側の岩壁にぶつかっているのが見えた。土砂と岩をかぶっていて黒く見えるが氷のかたまりである。 ▲チリンジ氷河の舌端 ▲チリンジ氷河の氷塔 右下に人が2人いる ナシールは、「数年前に来たときはここには氷がなくて川が普通に流れていました」と言った。見ると氷の下は流水になってトンネルができている。雪渓のシュルンドのようなものであるが、その大きさと不気味さは比較にならない。氷は絶えず動いていることがよくわかる光景である。この氷河トンネルの上にできた天然の橋を利用して対岸に渡ることにした。氷河は岩がゴロゴロして、所々で氷が露出して歩きにくい。ネパールではおよそ標高4000m前後で氷河の末端が現れるがパキスタンでは3000m前後で現れる。木の生えているそばにも氷河があるのだ。 ナシール 「この氷河を買いませんか?」 私 「え?」 ナシール 「買って日本に持って帰れば?」 私 「なんぼや?」 ナシール 「50ドルでいかが?」 パキスタンには氷河がたくさんある。流れが数十Kmに及ぶ巨大氷河もいくつかある。極地以外ではもっとも大きな氷河が集中している。このチリンジ氷河は北アルプスの雪渓より大きく雄大であるがパキスタンでは数多くある小氷河のひとつにすぎない。持って帰って剣沢にでも置けば、夏にアイスクライミングができるだろうと、林立する氷塔をみながら思った。ついでにたくさんある5000m級の山をひとつ日本に移せば、1年で数多くのルートが開かれてしまうだろう。パキスタンにあるおかげで小ピークなど見向きもされない。不遇の山やまである。これらは夏に3週間ほどかけて登りにくるのに手頃だと思う。雪に遊び花を愛でるうちに1週間くらいあっという間にすぎてしまうだろう。 ▲5000m級の山 放牧地ソフタラバードのテント場は好ましい。草地に木立があり公園のようだ。その向こうにはコズ・サール山群がそびえている。見えているピークは、そのT峰(6677m)とV峰(6450m)である。1999年に日本隊(仙台一高山の会)がT峰に初登頂した。その周辺には多くの山やまがあり未踏峰もあるが残念ながら今年になって入山禁止になってしまった。テロリストの侵入を警戒しての措置である。この山の北にあるチリンジ峠はカラコルム山脈とヒンドゥ・クシュ山脈との境界をなしており19世紀末から20世紀初頭にかけて高名な探検家たちが入山して、その地理を明らかにした。 ▲コズ・サール主峰(右)と三峰(左) ワヒの若者たちはロバに荷物を積んで運ぶのが仕事である。チャティボイ氷河ではクレバスが多かったが、かれらは巧みにルートファインディングしていた。こわがって動かないロバを数人がかりで押したり引いたりで誘導していた。 ▲クレバスで転倒したロバを介助する馬方 そのなかの一人が私のザックを持つと言って近寄ってきた。そして手も引くと言う。そこまで必要ないので断ったがかれは終始親切であった。川を渡渉するときは、一度はわたしの腕をつかんで50mほどある対岸まで行った。膝までの水深だが急流でその冷たさは半端でない。日本の山で経験する渡渉よりもかなりきびしい。かれの助けなしには渡れなかっただろう。そして、その次の渡渉は川幅が10mほどと狭いが急流どころか滝のような流れであった。かれはロバを渡した後、戻ってきて背中に乗れと言った。わたしは背負われた。途中で他の若者がかれを支えた。そして無事にわたることができた。馬方たちのなかで、かれは力持ちで機転が利きもっともよく働いていた。テントの設営と撤収、水汲みなどを率先してやっていた。カランバール湖で馬方たちは帰ることになっていたので、その前夜に食堂テントに来たかれに名を聞いた。イナームと言い、21歳だった。仕事を求めて町に出たが帰りは交通費節約のためか道路を歩いて村に帰ったそうだ。車を飛ばして一日かかる距離である。少し話した後に、 「これを君に」 と言って心付けを差し出した。かれは驚いたように、 「受け取れません」 と言った。そばにいたナシールとコックが口をそろえて、 「いただいておきなさい」 と言ったので、かれはそれを受け取ってポケットにしまった。 わたしが以前にネパールで雇った馬方が金銭に執着しすぎる若者で、態度も良くなかった。そのため良い印象を持たなかった。ワヒの若者たちはそのようなことはなく好感がもてた。イナームは翌朝に別れのあいさつに来たので言葉をかわして見送った。 1956年に日本人として初めてこのワヒの住むイシュコマン地方を訪れた藤田和夫はこの地の人と意気投合し、こう書いている。 「昨年わたしはカラコラムの人間に失望して帰った。いくら気心がわかったように思っても、最後になると、こつんと冷たくつきあたるものがあった。山や氷河よりも人間にいためつけられた。しょせんわれわれは異教徒なのかとあきらめた。しかしイシュコマンのひとびとから受ける感じはそれとは違う。」 (「アルプス・ヒマラヤからの発想」朝日文庫 1992年)。 そして藤田はもう一度イシュコマンに行ってみたいと言う。わたしはその気持ちがわかる。 ▲イナーム(左から2番目) ゆるやかな草の斜面を登って行くと湖が姿を現わした。すばらしい景色だ。カランバール湖は別天地である。ネパールのティリツォ湖はアンナプルナの氷壁のそばにあり勇壮だが、優美さはこのカランバール湖にはとても及ばないだろう。この地域の自然をあらわす言葉は、「砂漠、氷河、草原、湖」などだが、この美しさを言葉や写真で表すことに困難を覚える。 ▲暮れゆくカランバール湖 ナシールは夕方に帰ってきた。夏村のほとんどが無人になっていて一番下の集落まで行ってきたそうだ。 ▲9月でも花が残っていた |
初級夏山教室 剣岳・立山 修了山行報告 |
妙義山 〜痩せ尾根と奇岩の岩場を愉しむ〜 |