その4  ジョムソムへの長い道 〜 西ネパールで読んだ本  (報告=ココノール)

(「西ネパールの山旅」の報告は全4ページです)
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ジョムソムへの長い道

▲7月中旬のコジ・コーラは花で埋まっていた
登山が終わったらムグから無人地帯を通ってトルボに行く予定だった。ジュパールから飛行機で帰るつもりだった。しかし連日の悪天候は川を氾濫させた。トルボへの道を偵察に行ったパサンとダンは予定より早く帰ってきた。橋が流されて渡れないという。そこを何とか渡ったとしても、奥地に行くと渡渉地点がより危険かもしれない。それでそのコースはあきらめて、ジュムラにもどることにした。しかし、せっかくここまで来て、ジュムラからおとなしくカトマンズにもどるのはもったいない。食糧と燃料を補給してトルボには南回りで入り、ジョムソムを経由してカトマンズに帰るという長いトレッキングをしようと思った。

▲青いケシの花 チャルク・ラにて



あっちもこっちも橋が流されて

ジュムラからポクスムドに至る広範な地域はうっそうとした針葉樹の原生林帯であった。幹周りが2メートル以上もある大木の密林がいたるところにあった。一部は切り開かれて牧草地になっていたが、そのみごとさに驚いた。 カグマ・ラを越えてポクスムド湖からトルボ北部に入るつもりで行った。カイガオン村まで来るとカグマ・ラの手前が増水で渡れないとの情報があり、チベットへの隊商はすべてスリガド経由でポクスムド方面に行っているとのことだった。それで3日間かけてスリガドまで行って国立公園管理事務所の役人に聞いてみると「ポクスムド湖に行く道にある橋が流されて通れません。あの橋が土台ごと流されるというのは近年なかったことです。ドゥナイ経由で行ってください」ということだった。ドゥナイ経由だとポクスムド湖へは大幅な遠回りとなり、日程が足りなくなる。それでポクスムド湖やトルボ西部に行くのはやめることにした。



トルボ北部

タラコットからタラップ経由でトルボ北部に入り、ティンキュウ村からチベット国境の峠であるマリユム・ラを往復してツァルカ、ジョムソムに出てカトマンズに帰る計画を立てた。問題はタラップに行く谷が通行できるかどうかであるが、ドゥナイの町で聞いたところでは大丈夫そうだった。 ドゥナイから4日間でタラップ地方のド村に着いた。ここはいかにもチベットの村のようで好ましい。一日休みにしてボン教の寺院を訪ねた。 ここから5000mの峠を越えてティンキュウまで2日間かかった。近道はやはり橋が流されて通れなかった。ティンキュウはタラップよりも谷が広く開放感がある。

▲ティンキュウに広がる麦畑

▲マリユム・ラから望むチベット


▲ティンキュウの僧院で


マリユム・ラの隊商

ここから3日間でマリユム・ラを往復した。峠からチベット高原を再び見ることが出来た。ヤクやラバの隊商が殷賑を極めていた。ネパール側に来る家畜には荷物が満載されているが、チベット側に向かう家畜にはほとんど荷はない。つまりネパール側の一方的輸入である。輸入しているものは、米、油、茶、毛布等様々な雑貨品。家族連れの隊商もあり、小さな子供はヤクの背中にくくりつけられているが、おとなしく揺られている。わかい女性の乗馬姿もさまになっている。ココノールはサーダーとともに馬で峠に行った。そのままチベットの交易所に米を買いに行こうと思っていた。やってきたチベット人から「交易所は湖の向こうだけど片道2時間半かかるよ」と言われた。それで行くのをやめることにした。


僧院めぐり

ティンキュウでは山の上の僧院を訪ねた。勉強に集中するため普通は人を内部に入れないそうだが日本から来たというと歓迎してくれた。ツァルカでボン教の寺を訪ねたらラマがあれこれ説明してくれた。仏教寺院ではラマが留守で、近所に住む妻が鍵を開けて中に入れてくれた。これらの僧院で出家僧が集団で仏教哲学を長年、いや一生かけて学ぶ。きびしい自然環境にある僧院の伝統が数百年以上も維持されている。中国のチベット侵攻によって本山とのつながりが断たれた後も。信者の物心両面の支えがあってできることだ。いずれ次の機会には、このような僧院をゆっくりと訪ねたいと思う。


▲冬虫夏草を採集した帰り、
われわれを見物

ヤチャクンバ(冬虫夏草)

夏のこの時期はヤチャクンバを採取しに来る人で山中はにぎわう。われわれは外国人には会わなかったが、ヤチャクンバ取りには毎日のように会った。ヤチャクンバはキノコの一種で強壮剤として重宝されている。その値段は大きさによるが一匹200円程度のものが多かった。これが日本に輸入されたものを買うと100倍くらいの値になると聞いた。多くはチベットに売られて、そこから外国に輸出されるようだ。もうかるので老若男女が採集に殺到する。生息地はおよそ4000m以上の高地で危険な場所が多い。低地から来た人は高山病にもなる。雪崩や落石で命を失う人もいる。ある日、われわれのテントにヤチャクンバ取りの若者が担ぎこまれた。激しい腹痛を訴えていた。一晩看病したら症状は緩和した。それでも歩けず、われわれが作った担架に乗せて仲間が担いで下っていった。ヘルスポストのある村まで4日はかかる場所だった。


ジョムソムからのバス道も水害

ツァルカからトゥジェラを越えてサンダクへの険しい道をたどった。サンダクの手前では増水で沢が渡れなかった。沢の流れは幅3mほどで水深も浅いのだが急流で、7メートルほど下流が滝になっている。先日もここで、3日間水量が減るのを待って渡った隊商の馬が流された。滝に落ちて死んだと言う。われわれは、翌朝、幸いにも減水したのでラバの荷をおろして渡した。 最後の峠に立ってカリガンダキ谷の向こうに聖地ムクチナートが見えたときには、ものごとを成し遂げたという安堵感があった。その日はダンガルゾンに泊まり、翌朝サーダーと二人で先発してジョムソムで専用バスの手配をした。道路が何箇所も崩れていて手間取った。カトマンズに着いたのはBCを発って36日目の深夜だった。

▲霧の向こうから現われたヤギの群れ

▲祭壇で香木を焚く


西ネパールで読んだ本

現地で本を読むとよくわかると思い、西ネパールに関連する本を持っていった。 BCで安全を祈るための祭壇を作って香木を燃やした。香木については「チベット文明研究・川喜田二郎著」に説明がのっていたのでわかった。ビャクシンや糸杉が用いられている。その現地名も記載されてあった。チベットへの理解が深まったのは「チベット文化史・奥山直司訳」だった。「ヒマラヤ巡礼・吉永定雄訳」が寺院の良きガイドブックとなった。これは1956年の調査報告だが、これをもとに寺院を訪ね、当時との比較もできた。ほかに「風の記憶 ヒマラヤの谷に生きる人々・貞兼綾子著」「ネパール探求紀行・長沢和俊著」「須弥山の仏教世界・沖本克己編」なども役立った。 他の隊員が持参した本もあわせてテントが移動図書室となった。

(完)


メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)

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