その1 はじめに 〜 王の道をたどる (報告=ココノール)1・2・3・4 次へ はじめに 行動概要 27日 カトマンズ着 28日〜6月1日 カトマンズで出発準備 2日 専用車でスルケットまで 3日 飛行機でジュムラに飛ぶ 4〜6日 ジュムラで準備活動と隊荷の陸路輸送到着を待つ 7〜12日 ダフェバンジャン、グッチ・ラ、ガムガディ、マングリなどを経由してラバによる輸送のキャラバンを進める。 13日 ムグ(3500m)到着 14日 ムグで休養 15日 タンキャチャール(3800m) 16日 タンキャチャールから カプタンチャール(4400m)を高所順応で往復 17日 休養 18日 カプタンチャール 19日 ナムジャ・ラ(4987m)で高所順応 20日 プラノ・ムグ(3600m) 21日 BC予定地付近を偵察 22日 コジ・コーラに入り、川原にキャンプ(4500m) 23日 高所順応で左岸の丘に5080mまで登りキャンプにもどる。 24日 休養 25日 BC(4850m)入り 26日 荷整理 27日 コジ・ラ付近(5400m)にHC設置しBCにもどる 28日〜7月1日 悪天候のためBCに滞在 2日 HCにあがる 3日 6159m峰登頂後にHCにもどる。 4日 BCに下山 5〜6日 休養 7〜8日 悪天候のためBCに滞在 9日 6022m峰の北面氷河に設けたHC(5450m)に入る 10日 6022m峰に3名登頂後HCにもどる。 11日 HCからBCに下山 12日 BCを撤収してプラノ・ムグへ下る 13〜17日 往路をキャラバン 18日 ジュムラ着 19日 ジュムラ滞在 20日 ゴティチャール 21日 ナプカナ 22日 ナウリゴット 23日 カイガオン 24日 バランチャール 25日 ブッティングラ 26日 ブッティングラに滞在。輸送のラバ使い交替のため。 27日 ルプガド 28日 タラコット 29日 ライニ 30日 ギャムガー(3755m) 31日 ド(4000m) 8月1日 ドに滞在しシプツォク・ゴンバ(ボン教の僧院)を訪問 2日 チャルク・ラ(5360m)を越えてパンザン谷側の4780mにキャンプ 3日 ティンキュウ(4225m) 4日 マリユム・ラ手前の二股(4730m)でキャンプ 5日 マリユム・ラ(5488m)を往復。 6日 ティンキュウ 7日 休養 ドルン・ゴンバ(仏教寺院)を訪問 8日 パンザン谷をさかのぼりディクン・コーラ出合でキャンプ 9日 ツァルカ 10日 ツァルカ滞在。サーチェン・ゴンバなど訪問。 11日 トゥジェ・ラ手前のカルカでキャンプ 12日 トゥジェラ(5550m)を越えてサンダクの下の沢が増水で渡れず沢手前でキャンプ 13日 減水したためラバは空身で渡し荷はラバ使いやハイポーターが対岸に渡す。 サンダク(3760m)にてキャンプ。 14日 ダンガルゾン(3200m) 15日 ジョムソムでバスをチャーターしてタトパニまで。水害による土砂崩れ、橋の流出などによって車を3回乗り換える。 16日 ベニまで土砂崩れにより車を2回乗り換える。ベニでバスをチャーターしてカトマンズには深夜0時近くに到着。 17〜23日 残務整理と観光 24日 出国しシンガポールへ 25日 日本に帰国 K藤 S水 なおみ ココノール ■ ココノール (隊長・装備) ■ なおみ (医療) ■ K藤 (食糧・記録) ■ S水 (会計) ■ サーダー : マン・バハドゥール・グルン (46歳) ■ 高所ポーター : ビーバース・グルン (23歳) ■ 高所ポーター : プルプ・ボテ (45歳) ■ コック : パダム・ライ (47歳) ■ キッチン : ダン・バハドゥール・ライ (30歳) *ほかにラバ使いやポーターを山中で雇った |
▲ジュムラ飛行場 2011年6月2日、隊員4名と同行するスタッフ4名、そして荷物を満載したハイエースがカトマンズを発ち、インド国境地域に向かった。目的地は北部のチベット国境の山やまなのだが、いったん南の町であるスルケットに行き、そこから飛行機でジュムラに飛び北に向けてキャラバンを開始するのだ。インド国境に近い亜熱帯ジャングルの中でココノールの荷物を落として行方不明になるという思わぬ出来事があった。が、翌日は欠航の多い飛行機がなんとかジュムラに飛び立った。着陸直前にカンジロバの6000m級の山やまが見えてくる。大きく見えたのはビジョラ・ヒウンチュリ(6386m)だろう。カンジロバ山群の多くが日本隊によって初登頂された。その最後を飾ったのが1975年春の山形大学登山隊のビジョラ・ヒウンチュリであった。飛行機は、3000m級の前山の尾根をこするように飛び越えてジュムラ盆地に着陸した。 ラバは15頭雇った。ラバ使いは3名。これで輸送手段の確保はできたのだが、肝心の荷物が届かない。荷物はスルケットから陸路輸送としたのだ。事故で不通となり荷物を積んだバスが途中で動けなくなってしまった。そのうちコックのパダムが先行して徒歩とヒッチハイクでジュムラに着いた。入れ替わりに高所ポーターのビーバースがジープを雇ってバスまで荷物を取りに行った。 そのジープは深夜に3時間の仮眠をとっただけで次の朝に積荷とともに帰ってきた。急いでラバに積みやすいように荷作りを行なって出発できるかと思いきや、積みきれないことがわかった。サーダーがいないとこんなミスがおこる。サーダーはシシャパンマに行っていて後からわれわれを追いかけてくると知らされたのはカトマンズ出発間際であった。あらたにポーターを3名雇って出発となったのは12時を過ぎていた。 ▲キャラバンは行く ▲グッチ・ラ付近のキャンプ 6月7日、いよいよキャラバンは動き出した。2300mのジュムラの町をぬけて3000mの草原をめざす。遠征では、出発の時は楽しいものだ。まだ見ぬ土地への想いが胸をかけめぐる。ジュムラから民家や商店の間を縫い畑地をぬけて坂道を登ると陽のあるうちにキャンプ地の放牧場に着いた。気持ちの良い草原でジュムラの町と、その向こうに残雪の山が見えていた。この地域は湿潤で草原の上からは針葉樹の大木がうっそうとした森を構成していた。放牧地はこれらの森を切り開いて作られたものだ。それでも過剰に伐採されず森に囲まれた放牧地がゴルフ場の芝生のように美しい。これから3日間はこのような自然の中を歩くことになった。西ネパールはヨーロッパ・アルプスよりも自然が豊かで美しい。富士山なみの標高を持つ峠をふたつ越えて、ガムガディ村付近でムグ・カルナリ川の流域に足を踏み入れる。われわれのめざす山やまは、この上流にそびえていて、そこを水源とする川なので、ようやくここまで来たかと一息つく。 ▲王の道にある一里塚 そのムグ・カルナリを見下ろすところに石碑が立っていた。これはカサ王国の建てたマイルストーン(一里塚)である。カサ王国というのは12世紀から15世紀にかけて西チベットや西ネパール、そしてインドのガルワール、クマオン一帯を支配した国で、ジュムラ近くのシンジャというところを首都とした。その当時は今のようなネパールの統一国家はなく各地に王国が割拠していた。今の領土をもつネパールという国は二百数十年前にようやくできたのだ。カサ王国は、険しいヒマラヤの前山に国道を建設した。このチベットからインドに至る道は王の道と呼ばれている。数百年の歴史をもつ王の道の一部は今も主要な交通路として使われている。往古にチベットとの行き来に使われたであろう道をわれわれはたどることができる。日本で言えば、鎌倉時代に整備された街道が今も主要な道として使われているということになるのだが。そのことがどうしてわかったかと言えば、1950年代から60年代にかけてこの地を探検したイタリア人と、日本人の報告によってである。 |
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