2010年の秋、わたしたちはネパールを旅した。わたしたちというのは、労山全国連盟の海外委員を務めたK藤さんを隊長として、高齢のS田さんを含めて3人の登山隊である。登ったチュルー峰はネパールのアンナプルナ山群の北にある。マナン盆地をへだててチベット国境近くに6000m級の峰が4座ある。そのうち最東峰(6038m)と南東峰(6429m)を登る計画だった。天気にも恵まれて両峰に登頂することができた。登った山のうち最東峰はよく登られているが、南東峰はあまり登られていない。そのため最終キャンプにいると隔絶された世界にいる気分を味わった。そして未踏峰ではないのに自分たちの山だという気持ちを少し持つことができた。登山のあとは美しい高山湖ティリツォを越えるトレッキングをした。2010年10月17日に出国して11月24日に帰国する40日ほどの旅だった。この報告は同行のS田さんが「登山時報」に手記を発表されるので、そちらも参考にしてほしい。
▲チュルーの山やま(アンナプルナ4峰BCへの途次から北を望む)
感傷旅行
10月22日の夜、わたしたちはマルシャンディ川の車道終点シャンゲに到達した。ここは大峡谷の谷間にある村で小雨のなかを宿に駆け込んだ。宿は満員でわたしは床にマットをしいて寝ることになった。この川をさかのぼって峠を越えてカリガンダキ谷に至るトレッキングは人気コースで行きかう外国人は多い。早朝につり橋をわたって対岸に行ってみた。31年前に渡った橋だ。その当時とくらべて人々の服装は洋服やネパール都市住民の服になっている。ロッジができて村の様子も変化している。ネパールは多くの民族がいてそれぞれに独自の衣装があったのだが、それを着る人は激減している。言語も同様で、ネパール語がこの山地でも問題なく通じるようになっているようだ。通じなかったのは山寺の僧侶だけであった。人々の往来は飛躍的に増えている。しかし、この峡谷の自然は変わっていない。ただ乱暴とも思える雑な車道建設によって見事な滝や樹林が傷ついているのは残念だ。車道ができたことで、このつり橋を渡る人は少ない。大峡谷なので午前中の遅い時間でないと陽が差さない。朝食後に、晴れ上がった谷を車道に別れを告げて歩き始める。それでも上流まで断続的に車道が建設されている。そんななかをラバの隊商が鈴をゴロンゴロンと鳴らしながら通り過ぎていく。昔はチベットから塩を運んでいたものだが、今はロッジや村に低地から食糧を運んでいるようだ。だから下りは空荷だ。鈴の音を聞き、山を眺めているとヒマラヤに帰ってきたのだという思いがつよくなってきた。
ダルバートを食べながらBCへ
▲チュルー南東峰(6429m) 右端がコル
フムデ村まではロッジに宿泊して食事をした。昼ごろになるとロッジに入ってメニューを見ながら注文する。洋風メニューが多いのだがダルバートを注文するのが無難だ。ダルバートは山盛りの飯と豆スープ、ジャガイモや野菜のおかず、時には漬物がついたネパール中低地住民の定食だ。S田さんの注文したスパゲティなるものは見た目に麺類であることはわかるのだが味は?! ネパールに長期滞在してダルバートが食べられないとつらいと思う。隊長とわたしはロッジでは、ほとんどダルバートを食べていた。しかしBCで高度障害がでたときには、それにはあまり食欲はわかなかった。登山活動終了後には、また猛烈にダルバートを食べた。そのためロッジや食堂によって味の違いがよくわかった。おいしいダルバートには感動しながら食べたものだ。
▲最東峰(6038m)右のコルから
登った(南東峰C1より写す)
わたしたちが食事を注文すると同行の高所ポーター(全員がグルン族)が台所に入って女将の手伝いをする。少しでも早くできるようにと努力しているのだ。米を洗ったり、畑に菜っ葉を取りに行ったり、火をおこしたりで出来上がるまでに1時間程度かかるのが通常だ。そのため空腹感が増しご飯が出来上がると、物も言わずにがつがつ食べ始める。これはきわめて優雅な食事休憩であると思った。日本の食堂ではこんな時間の流れを感じることはできないだろう。それにしても高所ポーターの食べる量は半端ではない。洗面器に山盛りのような飯を食べる。サーダーは日本に長期滞在したことがある。そのときに連れて行ってもらったすし屋で30皿をたいらげたそうだ。「連れて行ってくれた日本人は10皿まではニコニコしていた。20皿を越えると顔がこわばってきて、それ以後、すし屋には二度と連れて行ってもらえなかった」などとみんなで冗談を言い、一同大笑い。かれらは陽気だ。
フムデに3泊して順応行動のためアンナプルナ4峰のBCに向かう。美しい谷に見とれながら登っていくと、標高3800m付近からサイドモレーンの上を歩くようになる。4500mで下山にかかったが、往復すると疲れた。翌日は休養で疲労は回復した。チュルーBCまでは1500mの高度差を登る。フムデ飛行場の西側の橋を渡ってジュル・コーラ(川)沿いに歩いていく。ジュル村を通り過ぎて沢の二つ目の二股を通って急登になる。深い呼吸を意識しながら登っていく。このあたりの眺めはヨーロッパアルプスよりも美しいということで隊員の意見は一致した。上部は展望が開けて4800mのBCに着く。BCにテントを張っていたのはわたしたちだけだった。
最東峰の登頂
最東峰はBCの南側から見るとずんぐりした山で、あまり見栄えがしない。ところがコルを越えて北側からみると頂上に突き上げる稜線と頂上付近の尖塔が魅力的だ。それは南東峰の尾根から見るといっそう顕著になり「あの山に登ったのか」と満足を感じる。
▲夕暮れせまる最東峰 (撮影:K藤氏)
▲最東峰頂上から来し方を望む
最東峰のハイキャンプは南東峰との間にある5600mのコルに設けた。高所順応のためこのコルを往復した後にハイキャンプ入りする。BCから見える斜面のふみ跡をたどっていくとケルンが随所にあり迷うことはない。コル直下は氷露出の急斜面になっており設置したロープを手で持って登っていく。コルは雪に覆われ、クレバスを避けて張ったテントに入る。すると荷揚げしたはずの羽毛服が見当たらない。そのため寒い思いをしてあまり眠れなかった。羽毛服は翌日、隣のテントでみつかった。朝、出発して歩き始めると隊長は「自信があるなら先に行きなさい」と言った。それで22歳の高所ポーターとココノールが先行して登りはじめた。雪は適度に締まっていて歩きやすい。斜度40度くらいの斜面もあるが他パーティがロープをフィックスしてある。それを使うことで話がついている。それをユマールで登る。下りてきたドイツ人らしき人に「登れたか?」ときくと一人は笑顔の返事、後から来た一人は浮かない顔をしている。頂上直下の急斜面手前でフィックスが途切れていた。ロープを使用しないと下山時に困る。ハイポーターが持っていた50mメインロープを張る。確保しようとしたがハイポーターは「要らない」と言って登りはじめた。ロープ末端は支点に固定してあるものの落ちれば50mいっぱいロープが伸びてしまうのだが。もうすぐ頂上だと思うと感慨深い。最終ピッチでは一歩を歩いては数回の呼吸をした。頂上に着くと快晴無風でチベット境の山まで見渡せる。後続を待ちながら高所ポーターと話す。かれは「8000mを二つ、6000mはこれで6つ」登ったそうだ。次の南東峰を見ながらキャンプ配置の話しなどしているとS田さんと行動をともにしていた隊長が到着した。S田さんはその後、後続のハイポーターとともに頂上に着いた。76歳という高齢での登頂を祝福する。この日は偶然にも私の誕生日でありBCで祝ってもらった。
南東峰の登頂
▲南東峰(6429m)へのルートとキャンプ(コルから写す)
▲北東尾根のC2(6100m)から頂上方向を望む
南東峰には5600mのコルから向こう側の氷河に降りる。それを横断して北東尾根にとりつく。わたしたちは高所ポーターがつけたトレースを注意深くたどっていく。思った以上に早く北東尾根の下に着いた。そして氷河上にキャンプ1を設けた。
翌日は急斜面を稜線まで登る。氷河からガレ場に取り付いてを登っていくと広い雪田に出る。そこをトラバースしてルンゼを登ると雪の付いた斜面にでる。そこに張られたロープをたどって稜線に出る。出た地点は標高5800mくらいだろうか。頂上方向に行った6100mにキャンプ2を設けた。ハイポーターはC1に引き返して明朝登ってきて行動をともにすることになった。夕方テントの外に出ると闇が迫っていたが、マナスル三山だけが夕映えに赤く染まっていた。その光景に感動する。
この北東尾根はなだらかに見えるが登ってみると、ナイフリッジや急斜面、クレバスもあり頂上まで意外と時間がかかった。私には最東峰での疲れが残っていたようだ。そのため最東峰よりもゆっくりとしたペースで登った。ここではロープをフィックス用700mとメイン120mを使用した。
高所順応
今回はフムデまでは徐々に高度を上げて行った。3000mのロッジで軽い頭痛が出て、登山活動終了まで朝晩は自覚症状があった。3300mのフムデから4800mに上がった。その計画を知ったときには「いっきに1500m登って泊まっても大丈夫か」と心配だった。頭痛に加えて、BCでは、睡眠時に呼吸が止まって目が覚めた。それを何度か繰り返した。次の夜からは頭痛はあるが呼吸が止まることはなかった。経皮的酸素飽和度(SPO2)の測定値はC2での最低値は58だった。他の2人は、それよりも10以上高かった。夕食時は眠くてボーとした気分だ。そのため南東峰頂上に行くことを躊躇したが隊長の判断で行くことになった。測定値は低くてもテント生活に問題ないし、行動はできる。頭痛がなくなったのは南東峰登頂が済んでBCに帰ってからだった。 そのときはSPO2の値は80台にあがっていた。
最東峰登頂のあとBCで3泊し休養した。これで疲れが取れるはずだった。しかし倦怠感が残ったままだった。BCの高度4800mでは疲れが取れにくい体質か? あるいは最東峰で自分の体力以上に速く登りすぎたのか? ハイキャンプから頂上まで2時間30分だった。3時間以上をかけて登っていれば疲労は少なかったかもしれない。
しかし結果としてふたつの6000m峰に登っているので高所順応はある程度できていたというべきだろう。そして、それはK藤隊長のたてた計画と指示にしたがって行動したことによるものだ。隊長は、これまで多くの高峰に登っているが、同時に多くの人を頂上に立たせてもいる。
▲南東峰の頂上にて、中央がココノール
おわりに
登山終了後にティリツォを越えてカリガンダキ経由でカトマンズにもどった。ティリツォの意味はタカリー語で「遠い湖」であると薬師義美氏はその著書「雲の中のチベット」で述べている。標高5000mの湖畔には簡素なロッジが一軒新築されていた。かつて訪れる人がまれだった「遠い湖」は「近い湖」になっていくのかもしれない。
登山中の2週間は連日のように他の隊が入山してきた。最東峰をめざし、成否にかかわらずさっさと去った。南東峰に挑んだのは私たちだけだった。他隊はすべて欧州からのようだ。かつてヒマラヤに世界で最も多く押し寄せた日本隊はどこに消えたのか? 一抹の寂しさを感じながら旅を終えた。
今回の登山で雇用したのは高所ポーター3名(サーダーを含む)、コック1名、キッチンボーイ1名、ポーター13名だった。高所ポーターはおおむね優秀であると思った。
▲ティリツォ(湖) ▲ダウラギリ主峰(ラルジュン付近から)
▲S田さんから送られてきた中日新聞の記事