アコンカグア登頂記   (皆空)



他、9名

皆空
■日時:2008年12月21日〜2009年1月11日

■山域:アコンカグア

■目的:海外登山

■参加者:皆空 他、計10名(ツアーL、現地ガイド2名含む)

■行動記録:本文参照↓



【アコンカグアに向けてのトレーニング】

 アコンカグア(6,962m)に向けてのトレーニングとしては【1】に体力、【2】に高所順応を考えていました。メラ・ピーク(6,461m)の時と同じように、体力作りには裏山の六甲山を週2回程度うろつきました。


【アミューズトラベルの測定値】

高所順応にはメラ・ピークの前に富士山頂で2〜3泊を3回したように富士山に出かけたかったのですが時期的に冬富士になりかけていますので、とてもその気になりません。仕方なく、それまでに調べてあった大阪駅前第4ビル7階にあるトレッキングツアー会社「アミューズトラベル」に設置された施設での低酸素トレーニングと、三浦雄一郎氏が開設した東京・代々木にある「ミウラ・ベースキャンプ」の低酸素トレーニングに行きました。

東京まで出かけた理由は「アミューズトラベル」では最高4,000mまでの高度しか設定できない事と、睡眠トレができないのに対して、「ミウラ・ベースキャンプ」では6,000mまで設定できて睡眠トレ(21時〜6時)も可能な事でした。



【アコンカグアに向けての装備の準備】

メラ・ピークのアタック時、出発時には−6℃程度で風も無かったので何となくアウターのジャケット上下だけでインナーにダウンを着けず、靴もダウン入りのオーバーシューズを着けずに出発してしまい、その後、風雪の中を歩いている内に手は凍えて、ずっとグー・パーし続けました。足は巣鴨のゴローに特注で作ってもらった2重革靴   
でしたが、冷たい鉄板の上を裸足で歩き続けているような感覚で凍傷になるかと思いました。帰国後も両手の10本とも指先の感覚が無く、出発する1ヶ月強経過した頃にようやく感覚が戻りました。


【ミウラ・ベースキャンプの測定値】

この体験から寒さ対策を考えました。寒気が厳しいと言われているアコンカグアでは本格的な凍傷にならないように今までのノースフェースの厚手の2重グローブに加えてダウンミトンを購入し、それにエクスペディション用ダウンジャケット上下を揃えました。メラでは靴にダウン入りのオーバーシューズを着けなかったという反省もありますが、アコンカグアでは雪は少なく、アタック出発後暫くアイゼンを着けないので、途中からオーバーシューズを着ける必要があります。アイゼンの着脱の際オーバーシューズも着脱しないと裏がすぐ破れるので、オーバーシューズを着けなくても暖かい靴を捜しました。その結果、保温性を高める為にアウターブーツとインナーブーツにアルミ保温材を使用しており、インナーがサーモフォーミングできて歪な私の足でも合わせられるスポルティバ社の「スパンティーク」を手に入れました。

シュラフはダウンジャケット上下を着て寝てもロフト(羽毛の立ち具合)がつぶれないように、大き目のものを準備しました。Sky High Bag 550でダウン量が550g(ハンドピックポーランドホワイトグースダウン95ー5%)の860フィルパワー、ロングサイズ(最大長228cm×最大肩幅85cm(身長185cmまで))です。重量がスタッフサック込み1050gで軽量化を図っていますが、これで寒さに問題はありません。それに撥水加工してある表生地なので口元付近が濡れません。(凍ってパリパリに張り付くだけです)



【アコンカグア登頂への実現計画】

メラ・ピーク登頂成功して帰国後、次はアコンカグアだと決めて実現手段を捜しました。色んなツアーがありましたが、時間に制約は無いので、できれば自分のペースで高度順化して成功率を高めたいと考えました。そうするためには、自分でアルゼンチンの「メンドーサ」という町で1500ペソの入山料を払って登山申請をし、ベースキャンプまで荷物を運ぶ手段(バスやミュール)を手配すれば参加可能なのです。

有限会社メルカードツアーのような日本で手配してくれる会社もありますし、現地の「インカ」ほか数社のアコンカグアツアーを世話する会社もありますので、丹念に調べて進める事も考えました。若者が単身で世界を回って途中アコンカグアに登ったという記事もみかけますが、現地はスペイン語である事と不測の事態の対応に不安があるので、安心できる確実なツアーで行って欲しいとの家内からの圧力もあって国内ツアーを捜しました。

ヒマラヤ観光とアトラストレックが参加可能な候補に残りましたが、催行決定していたアトラストレックの正月前後実施のコースに申し込みました。募集費用は92万円でサーチャージが5万円弱かかりました。日程は2008年12月21日〜2009年1月11日の22日間のツアーで、参加者は7人でした。日本人ツアーリーダーと現地ガイド2名の総勢10名の隊になりました。



【アコンカグア登頂まで】


 【12月23日】

チリのサンチャゴに迎えに来てくれた現地ガイドと一緒にラン・チリ航空で空路アルゼンチンの「メンドーサ」という町に入りました。ここで、本人が登山申請をしなければならないためです。
登山申請後、街で時間の流れがゆったりしたメンドーサのレストランでランチを食べている時、私の隣の籍に座っていた隊員(59歳の女性:以下「M女史」と記述する)がトイレに立った時、突然倒れて医者を呼ぶというハプニングが起きました。しかし、どうやら貧血のようで回復しました。

ベッドで寝られる最後の宿泊地になるロス・ペニテンテスにメンドーサからマイクロバスで着きました。ここはスキー場で夏ではここ1軒しか開いていないという事で、外人も含めてアコンカグアに向かう人・帰って来た人で満杯でした。乾燥した山肌とアコンカグアから流れてきた茶色い濁流のオルコネス川が印象的です。


 【12月24日】

今日からSpO2(文末脚注参照:高所になると値が下がる傾向がある)と、脈拍のデータ(順応していないと高所になる程、酸素運搬を多くするために高くなる傾向がある)を計り始めます。うとうと状態からしっかり目が覚めて、安静に横になっている状態で計りました。(SpO2・脈拍:97・79)出発してすぐ、遭難者救助基地のレンジャーステーションに届け出を出してから、テント村のコンフレンシアに向かっていよいよ自分の足で歩き始めます。ネパールのエベレスト街道に似て乾燥していますので、隊列を組んで人の後に付いて歩くと砂埃が巻き上がるので、マスクをつけます。

オルコネス川は相変わらず茶色の濁流です。急な登りもなくゆっくり歩いて3時間強で富士山よりも低いコンフレンシア(3,368m)に皆元気に着きました。ここには夏の間常設している組み立て式の大きなテントが、経営している会社エリアに分かれて並んでいます。トイレも天井のタンクから水を流す水洗です。出てくる食事は日本人の口にも何とか食べられるし、思ったより豪華なものが大量に出てきます。
昼食後、時間があるので対岸の山に高所順応に出かけようと皆を誘いましたが、反応は鈍く、やっと東京のご夫婦の旦那様(以下「旦那様」と記述する)が賛同して頂いて2人で出かけました。この「旦那様」は登りもひょいひょいと身が軽く直ぐに引き離されますので遅れながらも付いて行くのが精一杯でした。しかし、小高い所まで来るとまだ高度100m程度しか稼いでいないのに、ここで引き返すと言い始めました。私は単独で高度を稼ぐ事にして分かれてから、高度計が3,860mの約500m稼いだ所で引き返しました。

テントに帰ると、今日から愛知のトヨタ勤務の男性(以下「トヨタ氏」と記述する)と2人でテントを一緒に過ごす事になります。テントマットは厚くて5cm程もあり、厳冬期用シュラフでは暑くて、布団代わりにかけて寝ました。今日はクリスマス・イブという事もあって夜遅くまで騒ぐ外人さんや大音量のラテン音楽、それに花火の打ち上げなどで寝付けなかった人が多かったようです。


【12月25日】(SpO2・脈拍:89・84)

登山開始2日目はコンフレンシア(3,368m)からアコンカグア南璧BC(4,132m)に高所順応に向かう日程です。氷河が谷を削りながら時間をかけて流れる時、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように堆積した地形(モレーン)の横を通って、4時間程かけて到着します。

到着点はBCよりかなり手前になる小高い所で、ここがビューポイントにもなっています。高所順応のため30分程滞在する間に、私は単独で更に高い斜面を目指しましたが時間が無いので100m程度しか稼げませんでした。


【12月26日】(SpO2・脈拍:92・76)

今日はいよいよベースキャンプ(プラザ・デ・ムーラス:4,230m)に向かいます。行けども行けども進んだ気がしない斜度の無い広いオルコネス川沿いに進みますが、以前、途中の渡渉が大変だという記述を何度も見ましたが、この川原は基本的にとことん左岸を進めば良いようです。しかし靴の濡れない程度の浅い流れの渡りは3回ほどありました。川が大きく右折してから暫くしてようやくゆっくり登りにかかります。その頃から雲行きが怪しくなって途中雷が鳴り始め、雪が降り出して、あっという間に辺りが白くなりました。

そんな中で登っていると、前に歩いている私より2歳年上の三重県の男性(以下「三重氏」と記述する)の足元が怪しくおかしいなと思い始めました。ストックで何とかバランスを保とうとしていても危なっかしいのです。その内BC直前の急坂でガイドが一時離れている時、私の後方で転びました。どう考えても高山病の症状に見えましたが本人からの申告はありませんでした。彼はアコンカグアは3度目で、前回アタックキャンプのベルリンで体調が悪くなってペリコプターで搬送されたそうです。

9時間かかかってようやくBCに到着しました。その頃、やっと雪が止んで日差しが出てくると雪は一気に消え始めます。BCの入口に登山届出事務所があり、「メンドーサ」での書類をガイドが提出しました。ここはメディカルチェックの関所でもあります。明日朝メディカルチェックをする事になりました。「三重氏」と「M女史」は食欲がありません。M女史は今まで登った「エルブルース」や「キリマンジャロ」でも、いつも食欲が無く3日間全く食べずに登ったと言っていました。明日朝メディカルチェック後、1日休養日でC1往復も含めてこのBCで4泊する予定です。


 【12月27日】(SpO2・脈拍,朝の外気温:88・72,−6℃)

朝ゆっくりした朝食後、落ち着いた状態でメディカルチェックを順番に受けました。次々再チェック要と言われて帰ってきます。いよいよ私の番で今の所体調は良いのですが緊張しました。診察は若い女性の医者です。色々体調を英語で聞かれますが、発音が判り難い事もあって日本人ガイド「山岸氏」(フランスの国際ガイド)に手伝ってもらって返事をしました。診察はSpO2と血圧と内診の3種類です。私以前の5人全員が引っかかって明日朝再検査を言われていましたが、OKとの返事でホッとしました。(後で検査結果をみせてもらった所、SpO2が89で、血圧130−70で内診○と書かれていました)残りの「旦那様」もOKをもらいましたが、東京のご夫婦の奥様(以下「奥様」と記述する)は肺から異音が聞こえるので夕方の再検診を指示されました。

その後が大変です。医者から1日5リットル以上水分を取るように言われていますので、全員で食堂(大型テント)でお茶パーティになり、ここでワイワイ言いながら過ごします。その間にある日本人男性が食堂を覗きました。田部さんという単独で登頂を目指していらっしゃる40歳前後方で、既にC2のニド・デ・コンドレスまで登っていて、今日休養でBCに降りてきた人でした。彼は1月1日にアタックする計画だと言っていました。単独でいると日本人が恋しい気持ちがよく判ります。

午後になると暇なので、高所順応にC1(キャンプ・カナダ:5,043m)に行きたいと申し出ると、賛同して頂ける人は居らず、単独で行きたいとガイドに折衝するも責任が持てないと止められます。見える範囲ならという事で対岸にあるホテルまでの許可が出ました。高度は稼げなませんが、ホテル「プラザ・デ・ムーラス」に散歩に出かけました。この地にそぐわない立派なホテルでしたけれど、お茶でも飲んで帰ろうと入口の扉を押しても殆ど開かず、中は暗くて客を待っているような雰囲気はありませんでした。夕方になると、今日も一時アラレが降り始めます。

夕方、「奥様」は再検診で何とかパスしたと安心して帰って来られました。一緒に再検診する事になった症状の重い「M女史」と「三重氏」も明日朝、再度検診の指示が出ていてOKが出るまで、明日の高所順応のC1(キャンプ・カナダ)往復は許可が下りません。

夜、同テントの「トヨタ氏」のパナソニックのヘッドランプの接触が悪くなり、触っている間に全く点かなくなってしまいました。夜の間は、私のヘッドランプを2人の間に置いて共有で使う事にしました。


 【12月28日】(90・66,−8℃)

今日はC1(キャンプ・カナダ:5,043m)までの往復の順応日です。朝9時から、「奥様」「M女史」「三重氏」の3人は再検査ですが「M女史」「三重氏」はまだ要注意で、ガイドの監視の下で順応に出発します。

今日から日本人ガイドの山岸氏は隊列の並ぶ順を指定します。「M女史」「三重氏」「奥様」が先頭で、私は最後尾に回されました。全員空身に近いけれど、隊のペースが遅いので息は荒いけれど余裕で登れます。キャンプ・カナダに着いて全員、直ぐSpO2を測定されました。私の値は行動中高くて到着直後で98もありました。低い人は60台でした。体調に異変は無く快調です。

30分の休憩・順応の間に、見通しのあるC2のニド・デ・コンドレス方向に単独で向かいます。約180mの高度を稼いで、時間切れで引き返しました。下りの頃から「三重氏」は足元がふらついて、異常に思えますので「山岸氏」に告げると、その後ガイドは注意するようになって並び順も変えました。BCに着くまで何度かころびそうになるのでガイドはあわてて「三重氏」の後ろにぴったり付いて、何度かザックを掴んで助けていました。

BCに戻ってからは、5リットル厳守の人が居るので相変わらず「お茶パーティ」になります。夕方になると相変わらず小雪がぱらついて、登頂日に天候が悪くならないか不安を覚えました。


【12月29日】(90・69,−3℃)

要注意の「M女史」「三重氏」が昼前に再検査に出かけるがOKが出ません。明日の再検査でOKが出なければ2人はキャンプ・カナダへ出発ができない事になります。今日は、完全休養日で、お茶パーティが続けられました。

BCにはシャワーできる所がある事を教えてもらったので、どうしようかと考えました。料金は10ドルなので躊躇する金額でもないのですがシャワー後の寒さを考えると躊躇してしまいます。結局、暇なのと経験のためにシャワーを浴びに行きました。ネパールでは湯切れが恐ろしいのですが、ここではその心配も無く十分に湯を浴びられました。でも後の着替えるまでの間の寒さは厳しかったです。

明日からのC1以上に登る時に個人装備の荷を軽くするのに、ポーターを使う人は手配するので申し出るようガイドから言われます。費用はBC→C1:80ドル、C1→C2:120ドル、C2→C3:180ドル、C3→BC:180ドルで私を除く全員がポーターを頼みました。私の個人装備はザックや水分を含めて18kg程ありましたが8,000mを目指すためにも、ここは自分で担がなくちゃ、と覚悟しました。

アタック日の計画のため、現地ガイドのメンドーサにある本社からの情報によると、天気が良いのは明日から1月3日くらいまでとの事で1月3日にアタックが予定されました。


【12月30日】(92・66,−4℃)

テントをC1(キャンプ・カナダ:5,043m)に上げる予定の日のメディカルチェックも「M女史」「三重氏」は少し改善されたもののクリアできませんでしたが、ガイドが判断してすぐ降ろす事を条件付きで何とか全員で登る事ができました。4時間強でキャンプ・カナダに着きましたが、まだ時間が早いので、見える範囲という条件で高度を稼ぎにC2のニド・デ・コンドレス方向に向かいます。今回は2日前より先の5308mまで登り、300m弱稼げました。

昼食はいつも通りのランチパックが配られますが、今日から夕食・朝食は自炊しなければなりません。同テントの「トヨタ氏」は調理をしたことが無い事と、今後のためにもできるだけ動こうと食事の準備は全て私がやることにしました。といってもジフィーズやレトルトなので湯を沸かしたり温めたりするだけだけれど、一番重要な点火用のライターがなかなか点かなくて苦労し、指先が痛くなります。私は支給された物だけでは足らないので、持参した「岳食のカレーうどん」も作って食べました。


【12月31日】(SpO2・脈拍,外気温:83・68,−8℃)

今日はC2(ニド・デ・コンドレス:5,559m)にキャンプを上げる日です。5,300mの途中に、これ以上無理と「三重氏」が申し出ましたので、現地サブガイドに付き添ってもらって下山しました。どこかで待っているのではなくて、一気に日本まで帰ると言っていたそうです。
途中、ガイド連れの単独日本人男性が降りて来たので皆で声をかけると、付き添いのガイドに降りるよう命令されたと言って下って行きました。ふと昨年12月15日にミウラ・ベースキャンプで一緒に睡眠トレした人を思い出しました。私達より1日早く出発された30代半ばの若い男性で今回3回目での初登頂を目指していた人なのでした。気の毒ですが顔がパンパンに腫れて彼だとは気づかなかったのですが、下って行くその人に大声で声をかけると、彼であったと確認できました。同じミウラ・ベースキャンプで一緒に睡眠トレしたのに何が良くなかったのだろうかと思います。

日本のグループのアドベンチャ・ガイズ隊とは出発日が同じで、成田空港〜サンチャゴの空港やBCで何度か会いましたが、今回も再びC2で出会いました。彼らはC1からC2まで順化で上がってきましたが、今日BCまで下って、明後日上がってくるそうです。

夕方、軽い頭痛が出てSpO2が73〜75まで下りました。暫くすると何故か頭痛が消えていました。今晩も支給食だけでは足らないので持参したラーメンを作って食べました。まだ食欲は保っています。


【1月1日】(79・79,−12℃)

今日は順応にC3(ベルリン:5,933m)に往復する日ですが、昨夜からC2(ニド・デ・コンドレス)は風が強く、朝になっても弱まらず、出発する頃になってようやく弱まりました。

この頃、偶然、労山全国連盟のK藤和美(かずよし)氏に出会い、皆空という人はどこかと尋ねられた。計画書が出ていたから事前に知っておられて、尋ねられたようです。同じ性(←皆空の本名はK藤)である私である事を告げ、暫く話す内に、アコンカグアが成功したら8,000mに挑戦したいと夢を持っていると話すと、労山でもチョー・オユーの計画があるので参加したらどうかと言われる。よく判らないので、帰国したら調べると申し上げて別れました。K藤さんは60歳の男性を連れて順応に上に登って行かれましたが、C2キャンプとしてニド・デ・コンドレスはいつも風邪が強い所だからもう少し下に狭いけれど良いテン場があるのでそこで張るとおっしゃいました。良くご存知なのだなと驚きました。

ベルリンに向かって登っていると、途中ガイド無しの単独日本人が下ってきました。BCで一度話をした田部さんでした。昨日に登頂成功して下ってきたそうです。皆で大喜びしました。しかし、C2のニド・デ・コンドレスに帰ると、15時頃から吹雪き始めます。これからの天候が気がかりです。田部さんも言っていましたが、4日が最も天気が良いとの情報もあるようです。


【1月2日】(75・68,−12℃)

いよいよ今日はC3(ベルリン:5,933m)までキャンプを上げる日ですが、ポータが約束の時間になってもやって来ません。現地ガイドに任せて我々は先に出発します。途中、休憩時「山岸氏」は5700m付近で高所登山靴でフリークライミングを始めます。呼吸も苦しい中なので驚きました。上から登山者に付いて犬が下ってきたので驚きました。C3は本来のベルリンではなく少し上でテントを張る事になりましたが、まだポーターが来ないので、更に上のキャンプ・コーリアまで「山岸氏」と全員で高所順応に出かけます。ここまで全員異常は見られませんでした。ここでも休憩中に100m程単独で高度を稼ぎました。ベルリン意帰るとテントが張られており、外ではSpO2は82前後でしたがテント内で測ると72まで下がっていましたが、気分が悪いという事はありません。

あすのアタックに備えて、今日はエクスペディション用ダウンジャでケット上下を着て寝ます。さすがに靴は脱いでMountainEquipmentの分厚い象足に履き替えましたが、できるだけ出発に手間取らないようにします。

アタックを明日朝に控えて辺りがシーンとして眠り始めた頃、外で「Help Me」という男性の声が何度も聞こえます。我が隊の現地ガイドが対応に出ました。テントの中に聞こえて来て判ったのは日本人の中村という単独男性が下山で上のキャンプ・コーリアを捜してここまで降りて来たらしい。結局我が隊の現地ガイドがキャンプ・コーリアに案内することになりました。かなり時間が経ってガイドが帰って来た足音がして、その後、テント内でサブガイドと色々話をしているのが聞こえました。安眠を妨害された一夜でした。



【山頂の移動可能な十字架】

【1月3日】(70・82,−14℃)

アタック当日の朝は、持参した雪温計で外気温は−14℃で風も弱く、非常に暖かで晴れた良い条件です。4:00起床で配給されている「おかゆ」を温めて味噌汁と一緒に食べました。「おかゆ」だけではしゃりばてになると思って持参したラーメンも食べたかったけれど、時間切れで作れませんでした。もっと早く起きるべきでした。

 寒さ対策に、エクスペディション羽毛上下を今回初めて着て、羽毛ミトンも着けて出発しました。出発して直ぐ、「奥様」の調子が悪くなり「旦那様」も顔がかなり腫れて来てふらつきが大きくなって来たため、「先行組み」3人(私と「M女史」「トヨタ氏」)「ゆっくり組み」3人(「奥様」「旦那様」と65歳の男性)の2パーティに別れました。「ゆっくり組み」には現地サブガイドが付き、「先行組み」は先頭に現地ガイド、後方に「山岸氏」が付きます。

崩れた避難小屋のあるインデペンデンシア(6,400m)着いた時に、これから先、雪が出始めるので追いついて来た「ゆっくり組み」も含めてアイゼンを着けます。これから先は私とってメラ・ピークの高度を超える領域に入ってくるので気を引き締めます。グラン・カナレタ手前の大トラバース付近で、今回初めて頭がクラクラする感覚を覚えました。意識はしっかりしているけれどふらつく感じに近いので、うっかり踏み外さないよう意識を集中しました。

その内、私の前を歩く「トヨタ氏」が止まる回数が多くなって来ます。一定のリズムで歩きたいのですが後ろを歩いている私までリズムが崩れて苦しくなって来ます。「山岸氏」から止まらないよう言われるので、「トヨタ氏」を追い越して「M女史」の後に続き、ようやくリズムが出てきて楽になりました。

クロワールのグラン・カナレタに入る頃、終に「トヨタ氏」は後方で止まって登って来ませんでした。彼に付き添うべく「山岸氏」が下って行きました。結局、現地ガイドと私と「M女史」の3人で登頂を目指す事になりました。しかし今までの状況を考えると、何故「M女史」が最後に残っているのか不思議な気持ちでした。それまで前後していたスイス人の若いカップルが前を歩くようになりました。下って来る人がたまに居ます。グラン・カナレタを登る頃になるとクラクラする感覚も無くなっていました。山頂の直前になると、現地ガイドは私が今までよく一人で高度順応に出かけたのをもじって「一人歩きが好きなKONDOさんは自分でルートを捜してSUMMITしてきなさい」と譲ってくれました。

今日は最初天気が良く、見晴らしも良かったので山頂での360度のパノラマを期待していましたが、グラン・カナレタに入る頃から次第にガスがかかり始め、山頂に着いた15時前には雪こそ降りませんでしたが、展望は余り無くがっかりしました。暫くすると「M女史」が到着して直ぐへたり込んで動きません。顔を見ると唇が真っ黒でこんな色になるのかと驚きました。しかしすごい根性だなと感心します。雲で見通しは悪いけれど写真は撮れるだけ撮りました。「M女史」が立てるようになると、3人で手を取り合って喜びました。

山頂には他にスイスのカップルの2人がいるだけでした。現地ガイドは、トランシーバで我々の登頂を他のメンバーに伝えてくれました。彼によると、残りの4人はリタイアしたという事でした。

結局我が隊のサミットは2人に終わりました。降雪中のC3への下りは、下りが得意な私なのに、一歩がとても重くてすんなり下れません。どうしたんだろうと思いますが、多分高所の影響が時間差攻撃で出てきたのと、登りであまり食料を口にしなかったので、しゃりばてがでたんだろうと思います。インデペンデンシア辺りまでの下りで足が重く、8,000m峰へ向けての体力不足を痛感しました。

下り途中エナジー・ジェルのカーボ・ショッツを補給したのが利いてきたのか、高度が下がったのが利いたのかインデペンデンシアから先は元気が戻りました。

テントに戻っても、皆疲れ果てて、「山岸氏」以外は誰も迎えてくれません。同じテントの「トヨタ氏」も起きる気力も話す気力もなく横たわっていました。疲れた体で、夕食を作り始めるのに時間がかかり、暖かいものを食べてやっとホッとしました。これで次は8,000に挑戦できるかな、という思いがふと沸きました。


【注】SpO2とは、経皮的動脈血酸素飽和度の略で、血液を流れる物質の中に酸素を運ぶヘモグロビンがありますが、血液にあるヘモグロビンのうち、何%が酸素を運んでいるかを示します。血液中に溶ける酸素の量が酸素分圧に比例しますが、ヘモグロビンに結合する酸素の量も比例関係ではないですが、酸素分圧が高くなれば増えていきます。酸素分圧をPO2と表記します。直接動脈血を採取して測定した値をSaO2で表すのに対して、パルスオキシメーターにて経皮的に測定して推定した値がSpO2です。平地では正常な値としては96%以上、95%未満の場合は呼吸不全の疑いがあります。健康体の人が息を止めて死にそうになっても90%未満にならないのに、90%未満になる呼吸器系疾患の人は、在宅酸素療法の適用となります。

メラピークKOBE(兵庫県労山に所属する神戸の山岳会)

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